いっそあなたの獲物になりたい

 薄青の空を仰ぐ。九月を過ぎた北海道の山は、緑を忘れ深秋に焦がれ始めていた。
 移り気の早いことだと目を細め薄っすらと額に汗をかいていたあの頃を懐かしく思いながら、私は木の根元に体を埋めるようにして座り込んでいた。そよぐ風がざわざわと木々を揺らして早く出て行けと言っているようだったが、生憎痛みで動けない。
 霜が下りる前に山菜を採っておこうと考えたのが間違いだったのか。沢で滑らせた脚をだらりと力なく地面に這わせ、赤く腫れた足首を撫でる。
 着物の隙間から素足が覗く様は、まるで女郎だ。料理屋の娘にはとても見えないだろうな。それにこんな山の中じゃ、男じゃなくて獣に襲われてしまうわ。
 熊が出ないことを祈りながら、さてこれからどうしたものかとため息をこぼした。――そのとき。
 ざわざわ、風が木の葉で遊ぶのとはまた違う、強い音が響いた。ピタリと止まった音のあたりをすぐさま凝視する。そこには、筒状の――何?鉄砲の口のようなものが、こちらにまっすぐ向けられていた。

「ひっ?!わ、私、ただの村娘です!小樽の、料理屋の娘で、」

 一息に捲し立てて、両手を上げてぶんぶん首を横に振る。敵意はない、獲物もない、私はただの村娘だと樹の幹に背中を貼り付けた。
 そうすると、がしゃりと筒が下がり、代わりに茂みの中から男の姿が現れた。ひと目見ても初老を過ぎた男だったが、切れ長の瞳は鋭い眼光を宿しており歳を感じさせない。
 男は困ったように眉根をひそめて、長い白髪を風に揺らした。どこか、見覚えがあるようだったがいまいち思い出せずに、絡んだ視線に熱を込めた。

「お嬢さん、声を落としていただけんかね。せっかくの獲物が逃げてしまった」

 男は長い人差し指を向こうの茂みに向けた。つま先を追いかけた先では、ぴょんと白い兎が跳ねている。男はあれを狙っていたらしい。
 なんだ私じゃなかったのかと安堵したのも束の間、彼はざくざくと落ち葉を踏んですぐそばまでやってきて、あろうことかしゃがみ込み私と視線を合わせた。
 兎の代わりだとこのまま襲われるのだろうか。でも、この人になら悪くないかもとそう思わせる不思議な魅力があった。
 駆け抜けてゆく秋の風が私の髪を乱す。しかし男はそれを指摘するでもなく、筋張った手で私の足首に触れた。

「随分と派手にこけたものだ。これでは歩けまい」
「お恥ずかしながら……」
「ちょうど手持ちがある。塗ればじきに痛みは引くだろうが、日が暮れる方が早いだろう。山の麓まで送ろう」

 そう言って、男は手際よく足首に何か薬のようなものを塗り手拭いを裂き巻いてくれた。
 止める間も与えぬテキパキとした所作に閉口して目を丸くしていたら、ふっと身体が浮く。なんと男は、その両腕で私を抱き抱え、胸の辺りで抱いたのだ。
 膝の裏に腕の筋が当たっている。着物越しだが、脚には男の指が食い込んでいる。肩を抱き抱えられ、背中は彼の腕に支えられ、右頬は男の胸にぴっとりと寄り添っていていて。
 これでも私は、生娘でまだ男を知らない。なのに、初老の男とはいえ――こんな、見目麗しい魅力を持つ人に触れられて平気なわけがない。
 ぐんぐん上がっていく熱をよそに、男はさくさくと慣れた様子で山を降り始めた。両手が塞がっているのに、危なくないのだろうかとハラハラしたが心配無用だったようで。私の心音の方がよほど彼の邪魔をしていたのではないだろうかと思うほど、あっという間に山の麓に辿り着いてしまった。
 名残惜しさでつい、男の着物を引っ張る。すると彼は視線を落とし唇で緩い弓形を描いた。

「近いうちに、店へうかがおう。あの沢庵茶漬けはうまかった」

 そう言って、男は私を下ろすと踵を返し山へと戻ってしまった。
 その広い背中をじっと見つめて、沢庵――と、小さくこぼす。ああ、あの夜のお侍さんだ。
 どくん、どくんと、心臓が煩く喚く。しゃがみ込み足首をそっと撫でて、あの人の手付きを思い出そうと必死になった。
 せめてお名前を、聞いておくのだった。次にいらっしゃったら、うんと美味しい沢庵茶漬けでもてなそう。そしたらきっと、お名前くらい聞けるでしょうと言い聞かせて、あてのない約束に想いを馳せる。

2023/07/22