いってらっしゃい、おかえんなさい、そのどちらにも思うような返事はなかった。遠くなってゆく土方様の背中を見つめて、玄関先で一人首を傾げた。
ここ数日、土方様の様子がどうにもおかしいのである。
自分で言うのも何だけど、土方様は兎角わたしに甘い。新八様と土方様、お二人ともが家を開ける際は毎回のように土産を持ち帰ってくれたし、帰宅していの一番にわたしの名前を呼んでくれた。
骨張った武骨な手で、指で、わたしの髪を梳き頭を撫でて、それから。耳元に唇をよせて、いい子にしていたかね、と抱き寄せてくれていた。
けれどここ数日は、出迎えても手短に挨拶を済ませてさっさと居間に向かってしまうし、夜伽に誘おうと部屋へ忍んでもまるで相手にされない。
いい加減物悲しくなって、今夜こそはと覚悟を決めた。片付けや風呂を一頻り終えたならば、暗い廊下をいそいそ進み、土方様のお部屋へと向かっている。
障子の向こうからは仄かに灯りが漏れており、影が一つ浮かんでいた。まだ起きていらっしゃるようだと胸を撫で下ろし、その場に跪いて呼びかける。
「土方様」
「――――」
「{{ kanjiName }}でございます。お休み前のご挨拶に参りました」
「上がりなさい」
「お邪魔いたします」
いつもと同じように障子を開ける。夜のしじまにカラカラと軽やかな音が響いた。
下げた頭をゆっくりと上げて、すすと膝を滑らせ土方様のお部屋に入ると、さっぱりとした柑橘の香りが嗅覚を擽った。新しいお香だろうか。初めて嗅ぐ匂いに緊張を覚えたものの、身体はいつも通りに後ろ手で障子を閉めた。
土方様は寝る前の日課だと書き物に勤しんでいらっしゃる。わたしには背を向けて、机の上でさらさらと筆を滑らせていた。
待っていろということなのだろう。一床だけ敷かれた布団の側で正座をして、土方様のお背中をじいっと見つめた。
ああでも、お聞きするなら今なのかもしれない。ゆらりぐらりしている行燈の火と同じように心を不安で揺らしながら、
「土方様」
名前を呼んだ。はっきりとした口調で、声で、呼びかけた。
けれど土方様は、相槌どころか微動だにしない。もう一度呼ぼうかと迷っているうちに、硯で墨を削る音が聞こえ始める。
まだしばらく掛かるということだろうか。上がって良いとは言われたものの、無遠慮だったのかもしれない。
「土方様、わたしお聞きしたいことが……」
「その呼び方では、答えられんな」
コトリ、筆を置く音が小さく鳴った。指先の墨を拭き取ってから、土方様はゆっくりと振り返る。白濁の長髪がパラリと揺れるのに見入っていたら、切長の眼がわたしを捉えた。
こうして見ると、いつもの土方様だ。すっと伸びた鼻筋と、緩やかに結んだ薄い唇。それから――慈愛で濡れた、穏やかな目元。
この瞳に見つめられると、金縛りにあったように動けなくなってしまう。手足の指先がピリピリと痺れて、心臓が濁音を放つ。だからといって黙っているわけにもいかず、緊張でうまく動かない唇を無理やり開けて声を出した。
「呼び方、でございますか」
「なに。私もまだまだ若いという話だ」
「わたしにもわかるように、お話してくださいませ」
思わずむぅっとして、唇を歪めてしまう。あまりに幼いこの顔にも、土方様は笑いかけてくださる。獲物を睨む眼が、ゆっくりと緩まっていく。しかし、瞳の奥は仄かに燻っていた。
何かしてしまったのだということは、よくわかる。でも、何をと聞かれると、やっぱりわからなくて。
答えを求めて、土方様をじいっと見つめる。そこに声はなかったけれど、ずずと畳と着物が擦れる音が聞こえて頬に温もりが降ってきた。
いつの間にか縮まった距離。膝と膝とがぶつかって、土方様の整ったお顔が視界を埋めた。伸びてきた腕と腰に回された手にされるがまま、土方様の方へ抱き寄せられて胸の中へと落ちてゆく。いくらか乱暴な手付きに欲情が掻き立てられ、どくりどくりと心臓が煩く鳴いた。
腰を抱いた手が、指が、身体に食い込む。けれど、帯を解いてはくれない。土方様はただ強い力で抱き締めて、薄くも熱い唇でわたしの耳朶を噛んだ。
柔らかなその感触に思わず肩が上下する。逃げるように土方様の着物にしがみついたら、喉の奥から出たような低く艶っぽい笑い声が耳元で響いた。
「わからないなどと、言うからだ」
「だって、本当に、」
「では聞こうか。永倉のように、呼んではくれないのか?」
土方様を、新八様のように?言われていることの意味も意図も読めず、土方様の胸の中で首を傾げた。
そうしたら、仕置きだと言わんばかりに首筋を吸われてしまい、つい声が出る。土方様はまた笑って、今度こそわたしに答えを教えてくれた。
「私の下の名前は、知っているな?」
「勿論でございます。歳三様」
「そう呼んではくれないのかと、聞いたのだがね。{{ kanjiName }}は時折、意地の悪いことをする」
「そ、そんなことで……」
思ってもみなかった返しに、つい本音がこぼれてしまった。ああ、これは、種を蒔いてしまった。そう確信したけれど、もう遅い。
くるりと回った天と地、背中に柔らかな布団の感触。右手には土方様の白髪がだらりと伸びて、眼前には意地の悪い顔が浮かぶ。
「躾が必要かね?」
「ひ、日頃十分躾けていただいてます!土方さ――と、歳三様!」
反論するが後の祭りだ。土方様は満足そうに口角を上げて笑ったものの、しかし許してはくれなかった。
ふける夜、歳三様の熱がわたしの体温を上げてゆく。まだ行燈の火も消えてはいないのに。そう考える余裕さえ、歳三様は根こそぎ奪ってわたしを彼で満たしていった。
2023/07/22