常世も君と恋がしたい#1

 かつて、長州の海辺に此の糸と名の付く女がいた。本名をうの、通称をおうのという。
 彼女はひじょうに達者な芸妓であった。
 舞う様は蝶が如く、白塗りの頬に浮かぶ紅が緩く結ばれると、こぞって男は息を呑む。細い指が反物の裾を掴み口元を隠して笑う様子に、誰もが夢中になると評判の女だった。
 しかしいくら芸達者もいえど、長門国の一介の芸妓に過ぎぬ。
 本来ならば、幕末の動乱に巻き込まれるような生まれではなかったというのに、一つの出会いが彼女の運命を縁取ってしまった。
 糸が手繰り寄せられるが如く激動の世を駆け、晩年は梅の花となりひっそりと散った。
 おっとりとして従順。人に尽くすことを知る〝わきまえた女〟は、最愛の旦那のそばで眠っている。
 彼女のは、紅葉が散り銀世界が幕を閉じようという頃に咲く梅の花のように生きた。
 これはその女――おうのの、生まれ変わりの物語。



 眠たい。ひじょうに、眠たい。気を抜けばあくびが湯水のように喉の手前あたりから溢れてくる。
 体育を終えた昼下がりのような眠気は気怠さをともなって私の体を、意識を、支配しようとしていた。
 それもこれも、シミュレーションルームの調整を徹夜でやっていたからだ。目前にずらりと並んだディスプレイを一から十まで数えるように目視してから、手元のノートパソコンに視線を戻した。
 椅子が数台並んだ情報管理室で、力のない魔術師ことわたくし{{ kanjiName }}はキーボードを叩き続けている。

「だいたい、サーヴァントの皆さん力加減を知らないというか……仕方ない、仕方ないけど、調整するの今週で何度目だっけ」

 タンッ!リズミカルにタイプして、エンターキーを力一杯叩く。こうでもしなきゃ睡魔に喰われてそのまま戻ってくることが出来なくなるような気さえした。
 技術スタッフとしてカルデアに在籍しているのだから本懐であるはずなのだけど、連日ともなるも中々厳しい。
 それに、最近では人理修復の記録や、極小特異点の発生経緯と解消までの記録などなどのデータ管理に明け暮れていた。
 特殊な魔術礼装を纏った箱に情報を丁寧に仕舞い、データの破損がないか定期的にチェックする。言葉にすると単純そうだが、何と言っても数があるので意外と骨が折れるのだ。
 思い出して、つい項垂れる。シミュレーションルームの調整が終わったら記録の管理に戻らないと。
 あとは、テストフェーズだ。テストコマンドを打ち込んだそのままの流れで監視ディスプレイに目をやると、エミュレーターされたサーヴァントがディスプレイの中で戦っていた。
 エミュレートされるサーヴァントはランダムに選出される。テストでしかないので、強さや相性なんてものはどうだっていいのだ。
 とはいえ、私も魔術師の端くれだ。こう何度も見ていたら、好奇心が勝ってついつい調べてしまう。おかげで、カルデアにいるサーヴァントにはずいぶん詳しくなってしまった。
 相手は名だたる英雄や反英雄、精霊や半神までいるのだから、迂闊に近付かないようにはしているけれど。
 今回はアーチャーのエミヤさんと……もう一騎は、誰だろう?切り揃えられた前髪は薄っすら赤みを帯びており、光に反射して煌めいていた。随分と優雅な出立ちだが、それらを全て吹き飛ばすほどの鋭い三白眼が印象的な男性だった。
 最近カルデアに来た人だろうか。そういえば、ここ数日の食堂は宴会騒ぎだと誰かが言っていたっけ。それと関係あるのかしら?
 吸い寄せられるようにディスプレイを見詰める。冷たい顔のわりに、案外よく笑う。それから、軽やかだ。あれ?三味線ってことは日本人なのかしら?
 ついつい前のめりになって、ディスプレイを見入った。胸の奥では、何かが弾けんばかりにどくり、どくりと音を立てている。チリチリと、燻っている。
 一体どこから、この形容し難い感情が湧いてくるのか。胸の辺りを抑えて、深呼吸した。
 刹那、切れ長の冷たい目が薄っすらと細められて、口角が上がった。たまらず生唾を呑み込んで、手を伸ばす。否、自然に手が伸びた。ディスプレイの向こう側に触れることなんて、できやしないのに。
 はっとして腕を引っ込め、慌ててテストを止めた。もう十分過ぎるほど動かした。
 破損が見られたのは複数あるシミュレーション空間のうち一つだけだが、ここを好んで使っているサーヴァントもいる。さっさと調整を終えないと何を言われるかわかったもんじゃない。
 それに何より、この得体の知れぬ熱を帯びた感情を抑える術を他に知らなかった。

「……。とりあえず、図書館かな」

 あそこへ行けば最近顕現したサーヴァントの情報くらいはあるだろう。んんっと背中を伸ばして、気合を入れる。
 エミュレートされたあのサーヴァントの鋭い眼光や美しい髪の揺れる様が脳裏に焼き付いて、三味線の音が鼓膜にこびり付いて、胸が苦しい。
 業務の都合上、これまで色んなサーヴァントを見てきたけれどこんな感情は初めてで狼狽えている。眠たくて仕方ないけれど、このままじゃ夢でうなされそうだった。
 図書館は読書好きなサーヴァントのたまり場になっているが、かく言う私も本が好きでよく入り浸っていた。恐れながら紫式部さんに顔と名前を覚えられてしまったし、聞けば教えてもらえるだろう。
 席を立ち、踵を返す。――この選択が、誤りだったのか将又運命の悪戯とでも呼べばそれはロマンチックなのだろうか。どちらにせよ、徹夜明けの頭でする押し問答ではないことだけは確かだった。

 ◇

「あら、{{ kanjiName }}様。いらっしゃいませ。……お目元が随分とお暗いご様子ですが、いかがされましたか?」

 図書館に入ってすぐに、本の整理をしていた紫式部さんに声を掛けられた。この図書室は彼女の力によって再現されているようなものだから、本一冊にしても紫式部さんが人力で整理する必要は本来ないのだろうが、紫式部さんはいつも本棚の整理や掃除をご自分でされている。
 本好きの彼女らしい側面に思わず笑みを零しながら、ありがとうございますと礼を言う。とはいえ、眠気MAX今なら立ったまま眠れそう。そんな状況だ。長いは出来そうにないと断ってから、本の所在を聞こうとした……の、だけど。
 先に紫式部さんの方から「そういえば、」と話を振られてしまった。

「{{ kanjiName }}様は長門国……現代では、山口県……でしたか。あちらのお生まれでいらっしゃいましたよね」
「そうですよ。覚えてくださってたんですね」
「ええ、勿論です。と言いますのも――」

 にっこりと笑って艶っぽい笑みを浮かべると、紫式部さんは差し出がましいようですがと言いながらあることを教えてくれた。

「長門国がご出身のサーヴァントがいらっしゃったようですよ。あちらの本棚に書籍を纏めておりますので、よろしければ」
「ありがとうございます、紫式部さん。探してみますね」
「ええ、どうぞごゆっくり。{{ kanjiName }}様さえよろしければ私がお出しいたしますので、お声を掛けてくださいね」

 それはまさに私が図書館にやってきた理由であり、こうも都合よく事が進むと仕組まれているんじゃないかと疑いそうにもなった。否、普段なら疑っているのだけど生憎今日はそこまで頭が回らない。
 それに、紫式部さんは私が本棚を上から下まで眺めて、その中から一冊を探し当てるのが大好きだということをよく知っていた。なので、場所だけ教えて後はどうぞとこちらに委ねてくれたのだろう。
 手早く済ますならその場で本を渡す方が早いだろうに、私の好みを優先してくれたのだから仕込まれてなんていないはずだ。……多分ね。
 考えていても仕方がない。何より調べものが終わったらさっさとベッドへもぐって眠りたかった私は、礼を言ってその場を離れ紫式部さんの教えてくれた本棚へと向かった。
 図書館のちょうど真ん中あたりの列の、奥の方。紫式部さんが日頃受付代わりだと言って立っている場所からはちょうど死角になる場所だ。
 そこはちょうど日本のエリアで北海道から沖縄までの郷土に関する書物が並んでいる本棚だった。
 紫式部さんは本を丁寧に扱う人でもあるが控えめな布教者の側面も持ち合わせている。探す人が目ぼしい本を見付けやすいようにと、新しく収めた本には薄い魔力の付箋のようなものが貼られていた。
 その付箋は二週間ほどの時間をかけて、どんどん薄くなってゆく。なので、入ったばかりの本は兎角見付けやすいというわけだ。
 教えてもらったあたりをぐるりと見回して、色濃い付箋を探す。あの口振りだと収めて数日と言ったところだろうからまだしっかりと色が残っているはずだ。もう何度目かわからないあくびを零しながら、目尻に涙が溜まるのもお構いなしにとにかく視線を走らせる。

(あっ!あれだ!一番上にある!)

 一番奥の本棚の一番上に、ロイヤルパープルの美しい付箋が見えた。だが生憎手が届きそうにない。脚立はないかと見回したけど、同じく常連のナーサリーライムさんや刑部姫さんが好みそうな本はこのあたりにないから脚立も置かれていないらしい。
 背伸びをしたら、いけるだろうか。うん、ギリいけるかもしれない。
 いまいち思考の定まらない頭で出した答えは、恐ろしいほど単純で。ついっと爪先を立てて背伸びをし、腕を思いっきり伸ばした。紫式部さんにお願いすれば一瞬だったろうに、心底に突如生まれた火種を一刻も早く掻き消したくて。

「取れた……わぁっ!」

 やっとのことで、本を引き抜いた。と、同時に、バランスを崩し後ろへ倒れ込んでしまう。
 だめ、だめ!ここで踏ん張らなければ、後ろの本棚に背中からダイブ!本がばらばらと床に落ちドサドサと音がして――紫式部さんが血相を変えて向かってくる姿が走馬灯のように脳裏を過った。
 しかし悲しいかな私はしがない技術職員。脚力は下から数えた方が早い。お婆様に日本舞踊を習っていた頃は、多少あったであろう筋肉は今や見る影もなく。
 無理をした私が悪いのだろう。ギリギリまで踏ん張っては見るが、膝はすっかり曲がっていたし重心は完全に後ろへ流れていた。掴んだ本をぎゅうっと抱きしめて、覚悟を決める。
 たかが本を取ろうとした。それだけなのに、出禁になっちゃうかも。そうなったらどこに癒しを求めればいいんだろう。
 零れたあくびの残した涙が目尻から頬へ温い痕を残してゆく中で、何者かが私の背中を支えた。それは、流星の如く現れた影と共に私の身体を覆い、ちょうどくびれの辺りに手を回して、倒れかけたこの身体を抱きとめてくれた。
 すっかり俯いていた私はそれが〝人の形をしている〟こと以外、認めることができなかった。何故なら、私の支えてくれた手は人の形をしており、腰元に回された腕からは布越しでありながらも筋張った感触を私に与えたからだ。
 たまたま、通りがかってくれた誰かが、助けてくれたらしいと。気が付くのにそう時間は掛からなかった。
 ほんのりと梅の香りがする。それに引き寄せられるように顔を上げると――

「やあ。僕がいなかったら、大惨事だったね。君、中々幸運だぞ」

 いやに胡散臭い顔をした男の顔が、あった。彼は私を自分の腕の中に抱き締めたまま、つり上がった目を細め、唇を弓形にして笑っている。
 彼がサーヴァントであることは、明らかだった。カルデアのスタッフには、こんな人いないもの。
 整えられた眉尻は強気につり上がっていたが、美しい弯曲を描いた口元は一見人当たりが良さそうに見える。それから、外に跳ねるようにセットされた白髪は兎のような愛おしさを秘めていながら、結われた長い髪は妖艶な紅葉。併せ持つ要素全てに矛盾を持ち合わせながら、鋭い瞳で持って調和をとっているとでも云ったら良いのだろうか。
 嘘っぽい三白眼の瞳の奥で、はたと火が揺らめく。わざとらしいほどに見開かれた彼の瞳の奥に、熱が垣間見えた。

「ありがとう、ございます……すみません、お手を煩わせて――あっ、」

 直感が逃げろと告げる。それに従うまでもなく、腰に回された手から離れようと礼を言って縮こまった身体を動かした。――けれど。
 男は、私を離しはしなかった。それどころか、ずいっと彼の方へ引き寄せられてしまったのだ。はたから見れば、私は正面から抱きしめられているように見えただろうし、実際、抱きしめた本が最後の砦になっていた。

「あっ、あの、何か……?」
「おうのか?」
「えっ?」
「うん。間違いない。いや、僕が君を間違えるわけがない」

 細い指が、私の前髪をかき上げる。つい顔を上げて、彼を凝視したなら。愛おしい者を見つめるような瞳と、目が合った。

「いやぁ、久しぶりだね。元気だったかい?僕だよ。高杉晋作。――君の、旦那だった男だ。覚えてない?」

 紅葉色の瞳が、告げる。溢れんばかりの熱を保ったまま、薄っすらと笑みを浮かべている。
 彼の言うことにはまるで身に覚えがなく、あまりに突発的だった。高杉晋作といえば、山口県それも萩出身の人間なら知らぬ者はいない。かく言う私も、地元はちょうどそのあたりだ。
 山口県史における、大スター。破天荒という言葉が良く似合う、長州の生んだ麒麟児。こう立て並べてみるといかにも聡明な革命家を報復とさせるだろうが、私にとっては学校の授業で習ったり課外授業で訪れた場所といった印象しかない。
 地域にもよるのだろうが、吉田松陰の方が尊敬という意味合いに置いて頭一つ抜きんでている。師であるから当然なのだろうが。
 この人が、その高杉晋作?教科書で見たのとは随分違うその出で立ちに、思わずたじろぐ。
 そもそも、おうのとか久しぶりとか旦那とか、何のことを言っているのだか、さっぱりわからない。身に覚えのないことだらけだ。
 人違いだと首を横に振ろうとした。なのに、身体が動かない。親指で涙の痕を拭われて、正面から強い力で抱きしめられてしまう。肩口に埋まった顔が僅かに動いて、首筋に鼻先が当たる。すっかり冷えた肌は冬の日の庭先を彷彿とさせた。

「高杉さん、あの、人違いです。私、おうのって名前じゃ……」
「……まさか、記憶がない?ただの人間ってことか?何だいそれ。面白いじゃないか!」

 肩口に埋めていた顔を剥がし、高杉さんは私の両肩に手を置いて満面の笑みを浮かべた。その表情からは、溢れんばかりの好奇心と私に対する心根から漏れだした好奇心がありありと見て取れる。
 何がなんだかさっぱりで、頭も身体も追い付かない。オーバーヒートを起こした私は、ショートした思考回路のまま「何も面白くないです!」生まれて初めて、サーヴァントに反論をした。してしまった。

 刹那、ぷつりと思考が途絶えた。――それから後のことは、よく覚えていない。徹夜明けの頭で処理できるような事案ではなかったし、鞭打った身体も限界を迎えていた。
 意識を手放す直前、抱きとめてくれた肌の感触はどこか懐かしかった。確かなことは、ただそれだけ。それだけだったのに。

2023/07/22