災い転じて密月となる

 この日、藤丸立香は珍しいものを見た。
 マイルームまで迎えに来たマシュと連れ立って食堂へ行き、仲睦まじく朝食を済ませた。その帰り道のことだ。
「……ねぇ、マシュ。あれ、高杉社長だよね?」
「はい、先輩。その……随分雰囲気が、違うように見えます」
「マシュもそう思う?一人でいるの珍しいよね」
 立香の言葉に、マシュは控えめにしかし、しっかりと頷いた。
 二人の視線を一身に受けたる男は、鮮やかな朱色に濡れた髪を揺らし物憂げに雑誌を見つめている。食堂を出てすぐのオープンミーティングスペースに彼はただ一人で座っていた。
 薄っすらと赤らんだ頬を隠すように頬杖を突き、いつの物とも知れぬ誰ぞが投げ打った物とも知れぬファッション誌をパラパラと捲っている。
 彼こそは長州の産んだ奇跡、長州一のイケメン、立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花――いや、清純さは微塵も持ち合わせていないのだが。兎角呼び名の多い男・高杉晋作であった。
「先輩。これは、アンニュイ……というやつでしょうか。声をかけないのですか?」
「悩んでるところ。{{ kanjiName }}は一緒じゃないみたいだし、なんか面倒なことになりそうな気がするよね。それも、どうでもいいことで」
「なるほど……同感です。では、そっと通り過ぎましょう」
 マシュと立香は顔を合わせ頷き合う。高杉は日頃、何をするにも{{ kanjiName }}を側に置こうとした。彼女はカルデア局員の中でもマルチタスクを得意としており、引っ張りだこなのだがそんな彼女の側には大抵高杉の姿があった。
 いわゆるお気に入りというやつである。
 それを立香もマシュも知っているから、{{ kanjiName }}の姿がないことを不審に思ったし、高杉の顔付きからも何かしら事が起きたのは明らかだ。
 触らぬ神には祟りなしである。二人はこそこそと物影から出てきたかと思ったら、高杉へは目もくれず空っぽの会話を繰り広げ彼の側を通り過ぎようとした。
 しかし、そうは問屋が卸さない。
 高杉という男は待ち構えていた獲物を逃すほど間抜けではない。
 何の臆面もなく、にぱっと明るい笑顔を浮かべていつもの調子で声を掛けてきた。
「やぁ、マスター君!どこに行くんだ?素通りなんて水臭いじゃないか。僕と君の仲だろ?」
「高杉さん、どうも~!そうそう、えーっと、マシュと女子会!ねっ、マシュ!」
「はっ、はい!」
「ならちょうどいい。僕の悩みも聞いてくれよ。なっ!」
 一見人懐っこそうな笑顔を浮かべたまま、高杉はバンバンと勢いよく丸テーブルを叩いた。
 悩みなんて微塵もなさそうな顔をして、よく言うと立香は思う。まぁただ、吉田松陰の話になると声色が随分変わるあたり彼もまた内に秘めたるものがあるのだろうということくらい察しがつく。
 だが、こんな往来で話せるようなものを悩みなんて呼ばないことも立香はよく知っていた。
「高杉さん、ここで話すの?」
「なに、すぐに終わる。大したことじゃない」
 それなら自分じゃなくてもいいのに。言いかけた言葉を呑み込んで「マシュ、少しだけいい?」立香は呆れを含んた顔で眉尻を下げた。
 少しですよと言いながら高杉の向かいに腰を下ろし、ちらりと高杉の顔に視線をやる。
 彼は相変わらずマシュに興味があるようで、立香の訝しげな顔には気付いていない。
 ――やっぱり、高杉さんの頬、赤いな。叩かれたみたいな痕。
 高杉は長身のわりに身のこなしが軽い。惜しげもなく晒された筋肉のとおり、細身ながら鍛えているのだろう。
 その高杉が、顔に痕をつけられているのだから立香が疑わしい目を向けるのも無理はなかった。
 めざとい高杉は立香の視線に応えるように目配せしたものの、筋張った手で頬を隠すように頬杖を突いた。
 触れるなと言いたげな態度に、立香は思わず口を噤んでしまう。



 さて、その高杉の〝悩み〟だが――
「……というわけで、これに携帯用アラハバキをだな」
「あの、僭越ながら……っっ!携帯用アラハバキとは、そのようなペンに付ける代物なのですか?」
 悩みなんてセンシティブな代物には程遠かった。
 高杉の手には薄淡い紅色のペンがある。その先端をトントンと叩きながら、ここにアラハバキを付けようと思うのだがどうかと聞いてきたのだ。
 意味がわからないと立香は首を横に振る。そもそも携帯アラハバキって何。
 立香が言いかけた言葉をふんわりオブラートに包み込み、マシュがもっともらしいことを高杉に問い掛けた。
 それに対し高杉は「いい質問だ!」教師が教え子に飴をやるが如く、口角を僅かに上げて微笑を浮かべマシュを褒めた。
「普通は付けないな!だが、護身用には中々良いと思わないか?」
「そうですね……そうでしょうか……?あるいは、持ち主が女性なら……」
「待て待てマシュ!流されてる!」
「……はっ!すみません、先輩!」
 高杉にとって、マシュを言いくるめて自分のいいように持っていくなど赤子の手を捻るようなものだ。さすが一時は大企業の社長をしていただけある。
 ともかく、ここまでの会話でわかったことがある。
 携帯用アラハバキをペンに装着することは、彼の中で決定事項なのだ。きっと。それ以外に企みがあるに違いない。立香は確信した。
 光が差し込むと薄桃に変わる高杉の瞳をじぃっと見つめて、立香はあえて煩わしさを隠すことなく顔に出していた。一方、高杉は素知らぬ顔でペンを細長い箱に仕舞いながら「ところで」あからさまに話を変えた。
「{{ kanjiName }}に会ったら、こいつを渡してくれ」
 そう言って高杉が手渡してきたのは、ペンを入れた箱とその上に乗った数枚の和紙。丁寧に折りたたんであるので何と書いてあるかはわからない。
 だが、文のやり取りをするような距離感ではないだろうに。それに、高杉は何かにつけて{{ kanjiName }}の側にいようとするのだから自分で渡せば良いのに。どうして人に託そうとしているのだろうか。
 立香は思ったことそのままを口にしようとしたが
「頼んだよ、マスター君。さぁて、僕はそろそろ行くよ。商談の時間だ」
「商談って……」
「ああ、キャスターの彼とだよ。それじゃ、後はよろしく頼んだ!」
「えっ、ちょっと、まっ、高杉さん!!」
 ペンと手紙を立香に預けると、高杉は勢いよく立ち上がり踵を返した。
 立香も慌ててテーブルに手を突くが、高杉は迅雷の如き速さでその場を去ってしまう。揺れた着物の袖は角を曲がったところですっかり消え失せてしまった。
 妙なものを受け取ってしまった。そんな気持ちで、高杉からの預かりものに目を向ける。
 マシュは唖然とした顔のまま、立香と手紙とを交互に見遣り諦めたようにふっと笑う。
「{{ kanjiName }}さんなら、今日はアスクレピオスさんのところだと思います。フォウさんのバイタルチェックでうかがったときに、医薬品棚の整理を頼まれているのを聞きました」
「でかした、マシュ!さくっと渡しちゃおう」
 不本意だが、預かってしまったからには放っておけない。小箱と手紙を手に、立香は医務室へと足を向けた。マシュも立香の後を追って、席を立つ。
 無機質な廊下に残る赤の糸を手繰り寄せるように、箱を大事に抱えたまま立香は医務室へと急いだ。
 この選択が、この手紙が、何をもたらすかも知らずに。



 子の刻も過ぎようという頃、すっかり真夜中の色をした廊下を歩く足音があった。
 医務室から続くその音色は{{ kanjiName }}のものだ。彼女の手には、立香から受け取ったペンと手紙がある。
 アスクレピオスから頼まれた医薬品棚の整理は思いの外難航し{{ kanjiName }}は徹夜をも覚悟した。だが、立香の持ってきた手紙が彼女の労働意欲をにわかに削ったのだ。
 更にアスクレピオスには「睡眠は十分に取れ。徹夜などもっての外だ」と泣く子も黙るような剣幕で凄まれてしまい、{{ kanjiName }}はおずおずと医務室を後にした。
 ちらりと手元に目線をやるが、彼女はまだ高杉からの手紙に目を通していない。
――気まずい。
 朝方、些細なことで高杉と喧嘩をした。もっとも、{{ kanjiName }}にとって些末ではなかったから、今に至っているのだが。
 手紙の中身はおそらく謝罪だろう。生前の彼は筆まめだったというから、その名残だと{{ kanjiName }}は思っている。
 高杉を引っ叩いてしまった右手に残熱はない。だが、手紙一つで片付けられたことはいまだに癪だ。
 さすがに今日は独寝だろうか、と。{{ kanjiName }}は一つため息を零してから、部屋の前に立つ。満身創痍の身体は、やっとのことで自室の前にたどり着いた。
 自動で開いたドアの先は薄暗がりだ。手探りで照明のスイッチを探す。センサーは落ち着かないからと、随分前に外してしまった。
「――あれ?」
 確かにスイッチを押したのに、電気が付かない。パチパチと音はしているのに。
 回らない頭では、短絡的な答えしか導き出せない。疲労困憊の頭に身体は、考えることを拒否していた。
 もうこんな時間だもの。明日見ればいいわ。
 ふらふらと誘われるように部屋へ踏み込み、ベッドへとダイブ。そのまま微睡みの世界へ落ちてゆく――はず、だったのだが。
「おっと!危ないじゃないか」
「うわっ、え……?」
 {{ kanjiName }}が飛び込んだ先に、柔らかな布団はなかった。沈み込む先はなかった。
 両手だけは布団を突いていたが、{{ kanjiName }}の額は何者かの生ぬるい地肌に触れていた。さらに腹部から胸部にかけて、自分の服とその〝誰か〟の衣服が擦れている。
 つまり、{{ kanjiName }}は、ベッドの脇に腰掛けていた〝誰か〟を組み敷いていた。
 けれど誰だと言う間もなく頭上で響いた声が彼女の脳裏にある男の姿を映し出す。
「……高杉さん、来てたんですか?」
 むすっとした声で{{ kanjiName }}が言うのもおかまいなしに、高杉は筋張ったその指を{{ kanjiName }}の腰に添えた。
 ずるずると落ちてしまったら、{{ kanjiName }}の膝にアザができるとでも思ったのだろう。あるいは、癖か。いずれにせよ、今の{{ kanjiName }}にとってその行為は嫌悪に等しい。
 いや、しかし彼女は、来ないだろうと踏んでいた高杉が自分の部屋にいる、その事実にほんの僅か驚いていた。
 どこまで自分勝手なのかと。同時に、高杉に抱き留められて安堵している自分が心底煩わしく、惨めでもあった。
 {{ kanjiName }}は高杉の顔を見ようと頭を上げて、布団に突いていた右手を彼の頬に添えた。離れようにも高杉の腕が{{ kanjiName }}をしっかり抱き締めていて身動きができなかったのだ。
「{{ kanjiName }}。手紙を受け取っただろ?」
「ええ。まだ読んでいないけど」
「……そうか、それは、うん」
「手紙なんかで、許したくなかったの。私は〝マサさん〟ではないから」
 高杉を睨み付けるその目は、微かに潤んでいた。高杉は今朝方、あろうことか{{ kanjiName }}を妻の名前と呼び間違えたのだ。
 全面的に僕が悪いと頭を下げたものの、{{ kanjiName }}の機嫌がそう簡単になおるはずもなく――だが、ここまで思い詰めているとは高杉も予想していなかった。
 高杉は「まいったな」後ろ頭をかくでもなく、両腕を{{ kanjiName }}の背中へと回して自分の方へと抱き寄せる。胸の中に{{ kanjiName }}を隠すように。
 子どもでもあやすのかと思えば、高杉は{{ kanjiName }}の頭ではなく頸から首筋にかけてを、すっと人差し指で撫でた。びくりと揺れた華奢な肩に鼻先を埋めて、しかしいつものように柔肌に噛み付くことはしない。
 ただ、首のあたりを撫でたり、衣服に手を入れて背中の骨をなぞったり。手付きだけが、優しい。
「この状況で、誘ってるんですか?」
「いやさな、何というか。読んでいるもんだと思ったんだ。僕も驕りすぎたな」
「手紙で謝ったって、そんなの……」
「いくら僕でもこの現代にあって筆でどうにかしようなんて思っちゃいないさ。まぁ、あれは後で読んでくれたまえ。ここからが本題だ」
 ぎゅう。高杉は{{ kanjiName }}の背中を撫でていた手で彼女を力強く抱きしめた。
 腰に回した手はそのままに{{ kanjiName }}の全身を包み込むようにして、視線をも{{ kanjiName }}のつむじに向けて、高杉は取り留めのないことでも話すように紡ぐ。
「今朝のことは、僕が悪かった。悪かったとも。だが、勘違いするなよ。君は僕にとって{{ kanjiName }}でしかない。それ以上でも以下でもなく、ましてマサとはまるで違う。あぁ、こう言うのは酷だろうが、マサは僕にとって一番の妻だった。僕の妻としても、武士の妻としても、文句のつけようがない。だがそれはそれとして、君は君だ。{{ kanjiName }}。僕は今、君が愛らしくてどうにかなりそうだ。そうさ、認めよう。この高杉晋作が浮世において側に置いておきたいのは君だけだ。君が信じようが信じまいがね。嫌だと言っても、絶対に離すもんか」
「……息、よく続きますね」
「この愛の告白を聞いてそれ?さすがの僕も傷付くぞ」
 小さな笑い声が、{{ kanjiName }}の喉から漏れる。甘い、砂糖まみれのストレートな殺し文句。畳み掛けるような愛の告白には、懺悔の色が垣間見えた。
 {{ kanjiName }}だって、いつまでもへそを曲げていたいとは思わない。正直なところ高杉が自分のことを好きなら、それを言葉に、態度に出してくれるのなら、それで良かったのだ。
「高杉さん。怒ってごめんなさい」
「まぁ、いいさ。多少は信じてみようという気になったかい?」
「うん、まぁ、はい。あんなに言われたら……それに、あなたにしか、こんな感情、抱けないもの」
 高杉の胸に、剥き出しの肌に、柔らかな感触が走る。控えめな口付けは霞草のように儚く、しかし高杉を煽るには十分だった。
 夜の帳が、蜜を伴って下りる。
 起き上がった高杉が、真正面から{{ kanjiName }}を抱きしめて「好きだなぁ」零した言葉は、それ以上の意味を持っていた。

 ――翌朝。{{ kanjiName }}は鏡の前で胸元に咲いた赤い花を数えて、ついため息をこぼした。その傍らには、昨日立香から受け取った手紙がある。
 高杉はまだ布団の中だ。読むなら今だと机の上に転がしていたのを洗面室まで持ってきたのである。
「なになに?――{{ kanjiName }}へ、か。出だしは普通ね」
 そう。出だしは、一般的なものだった。
 だが読み進めるうちに{{ kanjiName }}の首は、頬は、耳は、みるみるうちに赤くなってゆく。この様を高杉が見たら、タコみたいだと笑い飛ばすだろうがそうさせているのは他ならぬ高杉からの手紙である。
 そこには達筆な文字で、{{ kanjiName }}への愛が綴られていた。
 どこが好きだとか、いかに近くに置いておきたいかだとか、誰にも渡したくないとも。
 その身が心配で仕方がないので、いざという時にはこの携帯用アラハバキを使えとも。
「この、ばかしゃちょう……」
 言葉とは裏腹に手紙を抱きしめて、{{ kanjiName }}は零した。
 その様子を高杉が後ろからニヤニヤと見つめていることも、知らずに。

2023/07/22