木漏れ日のあなた

 ざあっと木々を揺らす風は春の足音を遠ざける。暦の上ではもう桜の頃合いだというのに北海道の春は随分とのんびり屋なもので、指先から熱を奪っていく。
 今日は久しぶりに歳さんとのお出かけなのだから、もう少しばかり暖かければ良かったのに。歳さんの羽織った外套の裾がふわりと揺れる様を三歩ほど後ろから眺めていたら、冬の終わりを纏った風が疎ましくなった。
 お天気が良ければ、一緒にお団子でも食べましょうとお話したのに。これでは歳さんも寒くて敵わないでしょう。
 歳さんに見られていないのをいいことに頬を膨らませていたら、ふいに歳さんの長い髪が揺れてあの鋭い瞳に射抜かれた。はっとして立ち止まったときには時すでに遅し。歳さんは口角を上げて、意地の悪い笑みを浮かべて「{{ kanjiName }}」私の名前を呼んだ。
「私との逢引はそんなにつまらんかね」
「ちっ、違うんです!そうじゃなくて……その、桜が咲いているかと思ったから」
 頭の悪い嘘だと思った。私は東京の出身だけれど、もう五年はこの地に住んでいる。四月の始めに桜が咲くなんてことはまずないということを、よくよく知っている。
 世間では今日を不義理の日と呼んで――南蛮から入ってきた文化だそうだが、とにかく今日はその場限りの嘘を吐いて良い日という人もいるようだ。だとしても、こんな嘘、歳さんが騙されてくれるはずがない。
 すっかり目が泳いで魚になってしまった私を、歳さんは笑うでもなく嘲るでもなく、ただ、「そうか」と言って再び前へ向き直ってしまった。
 まだ桜の季節ではないだろうとか、イトウの花の間違いだろうとか、そんな言葉を期待していたのに。深くかぶった帽子の鍔をくいっと上げて、目尻の皺をほんの少し深くして、ゆるりと笑ってくれる。そんな姿を、私は期待していた。
 慌てて歳さんの背中を追い掛けて「あの、歳さん」腕を、きゅっと引っ張る。無礼でしかないこの行為を、歳さんは咎めるだろうか。そんなことを考えるよりも先に、脚が、手が、口が、動いていた。
「どうした?目ぼしいものがあったのなら、寄ろう」
「いえ、あの、……」
 こんなことで、どうして胸が弾けそうになるのか。見上げればそこにある歳さんの顔は、いつもと同じ――凛とした涼やかな瞳を携えた紳士そのもので、私が咄嗟に吐いた嘘などまるで気にしていないようだった。
 当然だ。馬鹿だと思われるのが嫌だった。そのために、つい口走ってしまったのだから。保身に走ろうとしているだけの私と、ただ愛しい女の相手をしているだけの歳さんとでは、見えているものが違う。
「桜の季節には早いの、わかってたんです」
「そうだろうとも。そこまでお前は頭の悪い女じゃないだろう?」
「恥ずかしい……」
 歳さんの外套から手を離し、つい両手で顔を覆う。逃げ出したい衝動に駆られながらも彼の視線が私から離れてゆくことが惜しくて、その場から動けない。否、折角のお出かけなのだから逃げようなんて選択肢はハナから存在していなかった。
「理由を聞かせてくれんかね?桜のせいにしたのなら、花に詫びの一つも要るだろう」
 筋張った手が私の両手を解き、長い人差し指が私の顎をくいっと持ち上げた。絡み合った視線はひどく穏やかだ。
 この人はどうして、意固地な私をこうも容易くその手に収めてしまうのか。春の小川にも似た緩やかな目元が、私の心臓を鷲掴みにする。歳さんの冷えた指に、この熱はきっと、届いてしまっているだろう。
 熱っぽいようだが、くらい言われる覚悟はあったけれど、歳さんは嘲ることなく、私の言葉を待っていた。
 最早反論の余地も、言い訳の隙間も、逃げ場さえ失った私は、あの子供っぽい言い訳を暴露する他なくなってしまって。ぼそぼそと、蚊の鳴くような声で吐き出した。
「歳さんとのお出かけが、冬の風に邪魔されたみたいで、悔しかったの。子どもっぽいでしょう?」
 一生懸命に笑った。子どもっぽい。その一言で、許されようとしたのだ。日頃は歳さんに子ども扱いされることが一番嫌なのに、何て都合が良いのだろうか。
 林檎色になった頬とは裏腹に、すっかり冷えた手に力が入る。逃げ場を無くした両手を胸の辺りに持って来て、心臓の音が伝わらないように手の平を重ねた。
 その一部始終を見ていた歳さんは、一瞬ばかり目を丸くしたけれど、私の顎に添えた手を離すことはなかった。
「ずいぶんと、可愛らしいものだ」
「だから、言うの嫌だったのに……」
 寝床で愛を囁くときと同じ声色が鼓膜を揺らす。今すぐにでも抱き着きたい、その欲を抑え込むように、むうっと頬を膨らませる。
 私の気持ちに気付いているのかいないのか。歳さんは私の顎から手を離し、代わりに私の手を取った。すっかり冷えた歳さんの手と、恋に浮かされ熱を帯びた私の手が絡む。
「そう不貞腐れるな。{{ kanjiName }}のそういうところを好いていると言っている」
 どくりと鳴った心拍音は、羞恥と幸福感と、愛しさとが混ざり合った複雑な音をしていた。だって、だってね。人は疎らとはいえ、歳さんは人前で手を繋ぐような人ではないもの。危ないから離れるなとは口を酸っぱくして言うけれど、人前でべったりくっ付くようなことはしない。
 なのに、急にどうして?
 咄嗟のことに驚いて、絡んだ手と歳さんとを交互に見比べた。歳さんはいやに満足そうな顔をするばかりで、それ以上は言わない。ただ、行くぞとだけ言って街中へと脚を進めたのだった。
 ――一通りの買い出しを終えた後、急に歳さんが「甘味処でも行くか」と言ってくれたから、二人でそこそこ繁盛している喫茶に入った。向かい合わせに座って、私はあん蜜を頼み歳さんはお汁粉を注文して、ゆったりと過ごす。こちらにはあまり桜の樹がありませんねとか、これからの旬はフキノトウだとか、そんな他愛のないことを延々と話し続けていた。
 けれど楽しい時というのはすぐに流れてしまうもので、食後のお茶を呑み終えた頃には空が夕暮れに染まりつつあった。
「そろそろ帰るとしようか」
 歳さんにそう言われては、首を横には振れない。名残惜しくも頷いて、二人揃って店を出た。
 次はいつ、こうやってお出かけできるかしら。次こそ、春になっているかしら。そんなことをふわふわとした頭で考えながら、歳さんの後ろをついて歩いていた。
 ちらちらと降り始めた粉雪が、風に乗って顔を冷やす。たまらず、きゅっと目を閉じた。刹那、首元に柔らかい……布、だろうか。続いて、手の平に見知った感触が走った。
 回らない頭でぱっと目を開け顔を上げると、そこにはやはり歳さんがいた。歳さんは私の手をぎゅっと握り、細めた瞳の中心に間抜けな私の顔を映して、唇で弧を描いている。
「今度来るときは、団子にしよう」
 ああ、この人は、こういう人なんだと。春の木漏れ日のような声色に、全て、全て、奪われてしまいそうになる。
 私は必死に、こくこくと何度も何度も頷いて、歳さんの送ってくれたストールに顔を埋めた。
 好き。溢れ出しそうになる気持ちを声にしてしまうのはみっともないから、代わりと言わんばかりに繋いだ手に力を入れた。これほどに春が待ち遠しい日には、もうきっと巡ってこない。

2024/04/01