三味線に愛は語れない

「高杉社長。これ、どうしますか?先方は、ずいぶん乗り気のようですよ」

〈バランッ〉

「勝手にどうぞ?はぁ……後から〝秘書が全部やりました〟なんてナシですからね」

〈ジャッ、ジャン〉

「……都合のいいように解釈します。ところで、そろそろ、機嫌なおしてもらえませんか?三味線と話すのも飽きてきました」

 書類を奥に押し込んで振り向くと、眉根をよせてひどくつまらなさそうにしている我が社の社長の姿があった。
 社長室の大きな椅子に腰掛けて午後からの新事業コンペ資料に目を通しているようだ。
 もっともらしいポーズをとってはいるが、その表情はまるで子ども。息を吐けばつまらんと口にしかねん。それほどに退屈そう……いや、不機嫌そうだった。
 彼がこんな顔をするのはとても珍しい。
 〝面白さこそ正義!面白みのない場は僕が面白くしよう!〟
 そんなことを素面で言うような人だ。平素からにこにこと胡散臭い笑顔を浮かべていたし、隙あらば口説いてくるような男である。
 ただこの男、恐ろしいことにほとんど嘘をつかない。息を吐くようにクズな側面があるというだけで。
 そんな男が、今日に限って静かなのだ。何故今日に限ってなんて言うかって?
 いつも私を助けてくれる阿国さんが工場に出向いていて会社にいないの。こんなの、絶好の口説き日和……なんて言うと馬鹿みたいな話だが、そんな日なのに。
 そわそわしてるこっちが可笑しいのだろうか。構えていたのに肩透かしを食らった、どころが口もきいてもらえないなんて。
 掛けた声に反応するでもなし。高杉社長はわざとらしく眉間に皺をよせていた。
 企画書なんて、どうせ面白いか否かでしか判断しないくせに。こんなポーズ、意味あるのかしら。

「高杉社長。お茶、淹れておきます」
「なぁ、{{ kanjiName }}君。君は俺が拗ねていると言ったよな」
「……機嫌がお悪い、と申しました。そのお顔でコンペに向かわれては社員の士気も下がります。何より、三味線と会話できるのなんて、私くらいのものですよ」
「そうそれだ。君、実は三味線の生まれ変わりか何かなんだろ?」
「違います!毎日聞いていますし、社長の言いたいことくらい何となくわかるだけです」
「つまらん。そこは僕の三味線があまりに喜怒哀楽に満ちて素晴らしいからだとか、社長のことなら何でもわかります!くらい言えないものか?……言えない。あぁ、そう?言ってもいいのに?」
「……やっぱり機嫌、お悪いですよね。いつもに増して自意識過剰ですし」

 わざとらしくしょんぼりして見せたら、高杉社長はにっこりと唇で大きな弧を描き目元を緩くして私を手招いた。

「そうぶつくさ言ってないで、こっちへおいで。君の顔をもっと近くで見せてくれたまえよ」

 いつもの調子が戻ってきたのだろうか。それとも、何かの罠?
 怪しさ満点だったが、生憎断る理由がない。それに、社長には片付けてもらわなきゃいけない仕事がある。
 溜まっている書類を持って近付き社長卓の上にドサっと置いて、ずずっと顔を近付けた。
 ……相変わらず、整った顔。これが口説いてくるんだから、たまったもんじゃない。

「こちら、明日までに押印お願いします。先方の電子化が間に合っておりませんので、紙で。文面の確認もちゃんとしてください」
「そういうのは{{ kanjiName }}君の仕事だろ?なんというか、ちまちまやるのは性に合わないものでね」
「社長じゃなきゃダメなんです。契約書も混ざってるんですから」
「ああ、わかってるよ。けどな、僕がヘソを曲げてる理由がわからないような女の言うことはタダじゃ聞きたくない」

 やっぱり、不機嫌だったんじゃない。そう言ってやろうと唇を開きかけた瞬間――ガタリ、椅子を引く音がしたかと思ったら、唇に柔らかな感触が落ちる。
 突然のことに動けずにいたら、いつの間にやら伸びてきた細くも筋張った手に後頭部を支えられ高杉社長の方へと引き寄せられた。
 広い社長卓に二人の影が重なる。息を漏らすことは憚られるようで、つい目を瞑ってしまった。
 離れたかと思ったら角度を変えて再び唇を塞がれる。漏れ出した高杉社長の吐息に名前を呼ばれて、帯びた熱が心臓を一際大きく跳ね上げる。

「しゃちょう、ちょっと、これ……」
「タダではやってやらないと、言ったじゃないか。僕が不機嫌な理由は、わからないんだろ?」
「わからないけど……」
「まぁ、理由なんてないからな!わかるはずもない」

 軽快な笑い声が、目の前で響く。反論しようにも高杉社長は唖然とする暇も与えてはくれず、もう一度唇を重ねて、そして

「こうでもしなけりゃ、意識しないだろう?君は。今回は僕の作戦勝ちというわけ」

 至近距離で囁かれる。
 こんなに近付いているのだから、表情なんてボヤけて見えやしない。見えやしないのに、目を吊り上げて意地の悪い顔で笑う高杉社長が浮かぶ。
 こんな人、好きになってしまったが最後。絶対に、幸せになどなれない。だからずっと、気付かないふりをしてきたというのに。

「……私はしばらく三味線とお喋りしますから、社長はさっさとその書類を片付けてください」
「こいつはまいったな。自分で言うのもなんだが、僕は案外一途な男だぞ」
「それはにわかには信じ難いですけど。……でも、その気にさせたのは高杉社長ですから、責任とって仕事してください!」

 高杉社長の手を払いのけて、ツンとした顔を見せることなく背を向けた。
 背後で「あぁ、そういう感じ?案外好きだよ、そういうの」呑気な声と共に、ペンを走らせる音が聞こえた。

2023/07/22