溶ける、解ける

 ――知らなかったわけじゃない。
 {{ kanjiName }}は言い訳でもするように胸の内でこぼした。誰が聞いているわけでもないのに。自分に向けた言葉にしては、いやに弱々しい。
 ダークチョコレートにも似た苦味で苦言をコーティングし、平然な|表情《かお》を貼り付けて、地味な薄紅のリボンが巻かれた小さな箱を隠すように両手で抱きしめた。薄暗い廊下に一つ、ため息が落ちる。
 彼女の心を占めているのは、とある祭典。かの有名な、バレンタインデーだった。
 それはカルデアでも、否、カルデアでは、毎年大変なお祭り騒ぎになっていることを一端の職員である{{ kanjiName }}は知っている。と言っても、その今年のお祭り騒ぎは先月半ばに幕を閉じ慌ただしい日々が戻ってきた――はずだったのだが。
「こんなの、どうして欲しがるのかしら」
 八の字にした眉とは裏腹に、ラッピングされた包みに向けられた眼差しは戸惑いに揺れていた。細い指はひどく大切そうに、包みを抱き締めている。
 {{ kanjiName }}はただ、自室に戻ろうとしているだけだった。なのに、足取りはいやに重たい。その上手元には明らかに贈り物の格好をした包みがあって、アンバランスだった。
 それもそのはず。だって、彼女の部屋には〝先客〟がいることを、{{ kanjiName }}は知っていた。約束しているわけではないけれど。
 兎角、今の彼女は部屋に戻ろうとしているのではなく、その〝先客〟にプレゼントを渡し行く途中であった。
 どうしてこんなことになってしまったのか。事の起こりは数日ほど前に遡る。



「チョコレート、ですか?」
 {{ kanjiName }}は肩に掛けたブランケットをいそいそと掴みながら、落としていた視線を上げた。自室のベッドのふちに腰掛けて、目の前にしゃがみ込んだ鮮やかな紅色の髪を見つめる。
 その紅色は――藤丸のサーヴァント・高杉晋作のものであった。
 毛先にかけて、色が薄まってゆく。普段は結い上げられた長髪が、結びを無くしてだらりと床に着かんとしている。
 彼がこの部屋に入り浸るようになって、どれほど経つだろうか。片手で数える時期など、とうの昔に過ぎてしまった。
 つい先程まで{{ kanjiName }}の身体を撫でていた高杉の筋張った指は、今、{{ kanjiName }}の服のボタンを一つ二つと留めている。
 自分で脱がせたくせに、と思う反面、{{ kanjiName }}はこういう――高杉の几帳面なところというか、意外に世話を焼こうとする側面が好きだった。肩のブランケットだって、高杉によって掛けられたものだ。
 その高杉の口から溢れた言葉に、{{ kanjiName }}はつい疑問符を打つ。対し、高杉は「ああ」とだけ、応えた。
「藤丸さんから、チョコレート……を?」
「バレンタインデーってやつだよ。君も馴染み深いだろう?」
「それはそうですけど……もう三月ですよ。ホワイトデーの方が近いくらいなのに、どうして今更」
 ピクリ。高杉の手が止まった。次いで、切れ長の目が不服を張り付けたような視線を{{ kanjiName }}へと向けられる。
「君さ。存外図太いと言うか……マスター君曰くは、謙虚だそうだけど、僕に言わせてみれば嫌味なほどだ。謙遜も度が過ぎれば何とやら、だな」
「もう、話が見えないです」
「君から受け取った覚えがないと言ってるんだよ。チョコレートってやつを」
 むっとした声。耳に響くそれはいやに聞き心地が良く、眉根のよった高杉の顔とは裏腹に、{{ kanjiName }}の心音はにわかに速まった。
 上目遣いになった高杉の瞳が、訝し気に{{ kanjiName }}を見詰める。じとりと湿り気のある視線に捕まえられて、{{ kanjiName }}はつい生唾を呑み込んだ。それでも、高揚し始めた胸は収まりそうにない。
「高杉さん。チョコレートが欲しかったんですか?その、私なんかの?」
「そうだ、そういうところが厭らしいんだよ、君は。僕にとっての価値を君が勝手に決めるもんじゃない。大体――」
 肩口に冷えた手のひらの感触が走った。{{ kanjiName }}の身体は瞬く間にベッドへと押し当てられて、完全には不機嫌な面を引っさげた狐のような顔がある。
「身体だけなら、君の衣服なんてどうだっていい。脱がせるだけの衣だ、着せようなんて考えないさ。……ハッ。ここまで言わせたんだ。わからない、なんて言わせないぞ」
 みじろいだ。その端から息の根を止めるような口付けが降ってくる。
 中途半端に閉じたボタンは、いよいよ置き去りになってしまった。同じように、チョコレートの話題も、それっきりだった。
 ――{{ kanjiName }}にとっては何とも具合が悪い。

 欲しかったと。高杉がそんなことを口にするなんて、思っても見なかった。藤丸から貰ったあの一箱以上の価値が果たして自分にあるわけがないから。
 あんな風に言われて無碍にできるほど大人ではなかったし、惚れた弱みもある。
 そんな初心で無垢な彼女は高杉の思惑通り、まんまと手作りの生チョコレートを用意してしまった。
 そうして、今に至る。



 手を翳せば戸が開く。ただ、自室に戻っただけだ、というのに{{ kanjiName }}の心臓は胸がはち切れんばかりに高鳴っていた。
 この夕暮れから夜にかけての時間帯。{{ kanjiName }}が小休憩に入る頃合いに、高杉は彼女の部屋を訪れる。最初のうちは{{ kanjiName }}が戻ってくるのを見計らってやって来ていたが、最近では断りもなしにベッドで寛ぐほどになっていた。
 きっと今日も来ているのだろうと{{ kanjiName }}は当然のように考えていた。だから――空っぽをの部屋を前にして、思わず「は?」間抜けや声が口を突いて出た。
「高杉さーん……?いないの?ほんとうに?」
 おそるおそる部屋に踏み込む。自分の部屋なのに。
 煌々としたライトが一人分の影を描く。狭い部屋をぐるりと見渡したが、高杉の姿はなかった。
 ふっと気が抜ける反面、肩透かしを食らったようで何とも苦い。
 ふう、息を吐きベッドに腰を腰を下ろす。チョコレートはサイドテーブルの真ん中を陣取った。
 その様を見て、{{ kanjiName }}は何とも情けないような出鼻を挫かれたような心持ちになった。来ない相手を待ち侘びているようで。
「約束してたわけじゃないしなぁ」
 肩透かしを食らったと責めるにも、高杉とは約束の一つもしていなかった。
 背中からベッドへと倒れ込む。慣れないことはするものじゃないと吐き出したため息は、瞼の裏に焼き付いた夕暮れへ溶けてゆく。
 音を立てて切れた緊張の糸は睡魔となって{{ kanjiName }}を襲った。うつらうつら、揺らぎ始めた意識に身を委ねれば全身の力が抜けていくのを感じたのも束の間、舌先に残ったチョコレートの苦味にはっとして目を開く。窓もないのに夕暮れが差し込んだような気がして、目を開く。閉じられた夢の背後に、彼女の瞳は薄紅の挑発が揺れる様を――高杉の後ろ姿を、映した。
「……高杉さん、いつからいたの?」
「そう怒るなよ。君が何やら畏まった顔で部屋へ戻っていったあたりから、ずっと見ていた。それだけだよ」
 むっとした声を高杉へ向けながらも、{{ kanjiName }}は起き上がった。そのままの勢いで床を蹴り「何してるの?」高杉の背中に抱き着いて、視線だけはしっかりとサイドテーブルへと向けて。飛び込んできた光景に、つい生唾を呑み込んだ。
 {{ kanjiName }}が用意していたはずのチョコレートの代わりに、ワインボトルとグラスが二つ並んでいたのだ。これらは何をどう考えたって高杉が用意したに違いないのだが、ではチョコレートはどこにいったんだ。
 {{ kanjiName }}は高杉の腰に回した腕の力を緩めあたりを見回そうとしたが、そうは問屋が卸さないと言わんばかりに手首を捕まれた。軽い身のこなしで高杉はくるりと{{ kanjiName }}へ身体ごと向き直ると、彼女にある包みを見せた。それは勿論、ああ、そう、勿論……作りたてのチョコレートが入った包みだった。
「ほら、これだろ?君の探し物は」
 高杉はつり目がちな目を細め口角を意地悪く上げて笑っている。その間も、{{ kanjiName }}の手を手首を離そうとはしない。
「随分と嬉しそうですけど、義理だったらどうするんですか」
「それはないだろ。何だ、お返しとやらまで用意した僕が馬鹿みたいじゃないか」
「えっ、お返しって……」
 どうにもこのまま渡してやるのは癪だ。そう思った{{ kanjiName }}はつんとした顔で高杉を睨み付けて、チョコレートから視線を落とした先にある白の着物をぐいっと引っ張り尖った唇で気のないことをそっけなく言った。否、言ったつもりだったのだが。
 お返し――その言葉を受けて、つい、怯んでしまう。だって、そうなのだ。チョコレートを用意しておくねなんてこと{{ kanjiName }}は言っていなかったし、会う約束すらしていなかった。なのに、どうして?
 答えを知りたかった、聞きたかった、けれど彼女は言葉を呑み込んだ。代わりに、高杉の胸にこつんと額を当てて真正面から抱き着いて、疎ましいと口にする代わりに胸元の留め具にキスをした。
「お返しって、あのワインですか?」
「ああ。チョコレートに合うものを見繕ってもらったんだ。物の方が良かった、なんて言わないでくれよ」
「言いませんよ。チョコレートだって、溶けちゃうんだし。残らない方が、いいですよ」
 背伸びをして、高杉の鎖骨に唇を落とす。低い声が、喉の奥で笑う。ふと高杉が腰を曲げて「可愛いところもあるじゃないか」{{ kanjiName }}の耳元で囁いた。
 チョコレートなどよりよっぽど甘い声色に、つい{{ kanjiName }}の肩は強張ってしまう。まだコルクも空いていないのにふわふわと足元は浮ついて、縋り付くようにして高杉に抱き着いた。

2024/03/24