言い訳は〝年頃ですから〟

 その日、私はぐるぐると答えの出ない迷路の中を歩き回っていた。橙色の夕焼けが雪雲の向こう側にうっすらと煌めいているのを無感情に見つめ、隠しようのない事実に気付かぬふりをしていた。
 夕餉を準備していた、最中、ふと思い起こされる。浮ついた声が、脳裏を過る。
「あのおっかない爺さんのどこが好きなわけぇ?」
 他愛無い世間話の中にまぎれた、ひとひらの花弁。想うたび、胸の奥に仕舞い続けていた恋情の記録。自分でも気付かぬうちに見て見ぬふりをしていたというのに――あの白石という男は、赤子の手でも捻るような具合に、ひた隠しにしてきた恋心を引き摺りだした。
 彼曰く〝おっかない爺さん〟が指す人物なんて、一人しかいない。ごくり、呑み込んだ生唾が喉を通るその気持ち悪さといったら、ない。
 ふざけないでと白石の背中を突き飛ばして、逃げるようにして炊事場へ転がりこんだ。あれから、まだ一刻も経っていないだろうに陽は落ち駆けている。
 土方さんとの歳の差は、少なく見積もっても三十ほどはあるだろう。祖父でもおかしくない年齢だ。そんな人に、こんな――こんな、熱を持つなんて、きっと、あってはいけないことなのだろう。
 事実、土方さんは私にひどく優しいけれど、意図的に触れられたことは一度もない。何とはなしに、土方さんの隣に座ってみても拳一つ分の距離が常にあった。
 けれど、白石が言ってくるくらいなのだ。私がいくら隠したところで、土方さんは勘付いているのだろう。この焼け付きそうなほどの熱に。
 吹き抜ける冷えた風に身震いするが、母屋に戻ることができない。いま土方さんと向かい合ってしまったら、きっと触れたくなってしまう。夏の夜のような熱を求めて、けれど情婦のような面すらできず、ただの甘えた子どものように土方さんの手を求めてしまう。それはあまりにも幼稚で、それでいてふしだらで。
「どこが好きって、顔だよ……」
 土方さんの顔を思い浮かべて、つい項垂れる。一目惚れだったの。おじいさんと言って間違いない歳だけれど、それでも、かっこよかったの。
 凛とした瞳の中に、薄っすらと滲む柔らかさ。
 ほんの少し口角を上げて笑う、格好付けた男の面構え。
 年を感じさせない、すっきりとした立ち姿。
 洋風の帽子が似合うところも好き。こつんと靴の踵をわざと鳴らして、私を呼んでくれるその様も好き。
 一つ一つ、挙げていったらキリがない。ずっと〝素敵〟なんて言葉で濁してきた感情は、刃物をべっとりと濡らし私の胸を一突きにした。
 いつまでもこうしているわけにはいかないのに。そろそろ夕餉を作らないと、いけないのに。
 浮ついた心のまま、包丁に手を伸ばす。昨日買ったばかりの葉物にゆっくりと刃を当てる。そうだ、今日は鍋と煮物にしましょう。新鮮なおさかなをいただいたのよ。頭の中で、自分と対話しながら、次はそうねと大根をさくりと切ってやる。
 けれど、一度熱を帯びた胸は、そう簡単には収まらない。大根を鍋に移しながら、つい、ぼそりと。欲を吐き出すように声にした。
「――好き」
 こうして一人の時に発しておかなければ、土方さんの前でぽろりと言葉にしてしまいそうだった。
 それほどに、崖っぷちだった。半ば無理やり起こされた感情は、止めどなく溢れて心底に湖を作る。身体の外に出してやらなければ、滲み出てしまう。
 これは救命処置だった。私が土方さんのおそばにいるための行為だった。恋情を押し殺すための、救済処置だった。だと、いうのに。
 鍋を両手に持ち、すっと背を伸ばした。そのとき――喉の奥から滲むような、苦い果実のような声に、意識を奪われた。
「ほう。ずいぶんと大胆な独り言だな」
 後ろから声を掛けられて、大袈裟なほどに肩を揺らす。鍋を持っていた手から力が抜けて、ずり落ちる。
 慌ててしゃがみ、鍋を両手で抱きしめるようにして抱えた。そんな私をくつくつと笑う声と共に、こちらに近付いてくる足音が聞こえて、顔を上げる。そこには、何というか、少し意地の悪い顔で笑う土方さんが、いた。
「驚かさないでください!びっくりしました」
「好いた男がいるのかね?」
 私の声が、聞こえなかったのだろうか。土方さんは私が驚いて鍋をひっくり返しそうになったことなど、些末なことだと言いたげだった。自然に鍋を掴み取り上げて、まだ火の付いていない窯の上へ置いて、もういいだろうと言わんばかりに私を見たのだ。
「その、私も年頃なので」
「そうか。そうだったな。それで、どんな男だ?」
 私を鍋に近付けさせまいとしているのか。土方さんは窯と私の間に立ちふさがり、答えるまで通さないと言わんばかりの様子だった。
 私は私で、つい先程蓋を開けたばかりの感情に戸惑うばかりで。土方さんの鋭い目付きから逃げるように地面へと視線を落として「秘密です。年頃ですから」子どものような言い訳をした。
「ふむ。聞き方を変えよう――目の前にいる男ではなく、別の男を好いている、ということかね?」
 反射的に、顔を上げる。ほんの僅か細められた土方さんの目に、捉えられる。全てを見透かしたような顔をしながら、けれど、決して、手を伸ばしてはくれない。
 首を横に振ることも、縦に動かすこともできず、ただ押し黙って「どうでしょう」言いながら、一歩、踏み出した。
 ひた隠しにしてきた感情をついに殺すこともできず、私は、土方さんの胸に思いっきり飛び込んだ。おいでなんて、来いなんて、抱きしめてやるなんて、言われてもいないのに。
 土方さんは私を突き放すでもなく、ただ、ゆっくりと頭を撫でた。筋張った指が、私の髪を梳く。大きな手が、頭のてっぺんから首筋までをゆったりと撫でる。
 ――好き。そう零しそうになる声をぐっと抑えて呑み込んで、腹の底に落としながら、ただ、息をする。熱を纏った吐息が零れて、顔に熱を集める。緊張で強張った指を懸命に動かして、土方さんの衣服を掴む。
「それが、答えかね?」
 土方さんは私の行為に答えるように、皺の多いその手で、私の小さな手をぎゅっと握る。土方さんの胸の中で、一つ頷く。
 芽をだしたばかりの恋は一瞬にして花を咲かせてしまったのだった。

2024/02/01