貸し一つ

 八月九日という日に、私は絶体絶命のチャンスに見舞われていた。おかしいでしょ?自分でもそう思う。
 でも綺麗にかち合ってしまった。絶体絶命の状況があって、目の手にはとあるチャンスが転がっている。

「――というわけで、来たまえ。長州、いや、幕末一イケてる男がこう言ってるんだ。拒む理由なんて、ないだろ?」

 いつもの堂々たる様子で、高杉さんは私のベッドにふんぞり返って脚を広げ、腕を広げていた。
 薄っすら細められた目は意地悪く歪み、口角はわずかに上がっている。ほら、と伸ばされた手は、その細い指で私を誘う。
 ハグの日らしいねと口にしたのが間違いだったのか。好きな男、それも叶っちゃいけない恋の相手に対して、つい、口を滑らせた私がバカだったのか。
 考えてみれば、高杉さんはわりと私に対して好意的だった。あの細い腰に抱きついてみたい――そんな下心なんて十分にお見通しだろうに、いいぞ、なんて二つ返事で頷かれて、この有様だ。
 私はといえば、自分の部屋なのに床に正座して、いやーとか、あの、とか、歯切れの悪いことばかりボソボソと繰り返している。
 そろそろ覚悟を決めて飛び込まないと、飽きられてしまいそう。かと言って、万が一抱きしめ返されたりなんかしたら心臓がもたない。破裂する。死んじゃう。絶対無理。
 ううんと視線を落として頭を抱える。ごくり、生唾を飲み込む。かれこれ十分は高杉さんを待たせているのに、中々勇気が出ない。

「あのなぁ、{{ kanjiName }}君。僕もそう暇じゃないんだ。ほら、早く」
「その、こころの、準備ってやつが、あるので……」
「そんなのを待っていたら、日が暮れるぞ。三味線より重たいものは持たない主義のこの僕が、膝を空けてるんだ。いい加減、地べたに張った根を抜きたまえよ」

 ため息混じりの声が降りかかる。あぁ、これ、呆れられてるやつだ。
 ベッドの軋む音がして、高杉さんが立ち上がったのが気配でわかる。
 このままどっか、行っちゃうのかな。少しの後悔と安堵を覚えたまま顔を上げたら――私を見下ろしている高杉さんと、目が合った。

「あの、えっ?高杉さん、これ……」
「まったく、世話が焼けるな、君という女は。一つ貸しだ」

 高杉さんの声が、耳元で響く。しゃがみ込んだ高杉さんの腕がこちらに伸びてきて、鼻先を涼やかとも甘ったるいとも言い難い夏の香りで満たされた。
 高杉さんの肩口に、唇が振れる。私の背中を、高杉さんの細い指が撫でる。抱き寄せられた、正面から抱きしめられたこの身体だけが事実を体感している。
 理解していても、呑み込めない。何が起きたのかわからずに、私はバカみたいにぱちぱちと瞬きを繰り返す。その視界の端に映る高杉さんの美しい髪があるのを見て初めて、彼の好意に気が付いた。

「ぅっ、えっ、高杉さ、」
「貸しだと言っただろう?利子はトイチだ」
「ちょっと待ってください!トイチって、それ違法ですよ!」
「知ったことか!何もしない君の代わりに、僕は君の期待以上のことをした。これが貸し以外の何だって言うんだ。驚くほど明瞭だろう?まあ、僕としては。{{ kanjiName }}君の面白い顔を見られたしトイチで勘弁してやろうという話だよ」

 高杉さんは言い終わらないうちに立ち上がり、ひらひらと手を振って私の横を通り過ぎていった。
 一人残された私は、振り返り、高杉さんの背中を目で追い掛けた。腰が抜けて、立ち上がれなかったのだ。

「言い忘れた」

 ドアの前で、高杉さんが立ち止まる。私に背中を向けたまま、顎を引き視線だけをこちらへ寄越し目尻を細めて笑う。

「{{ kanjiName }}君がどんな面白いものを持ってくるか、楽しみにしているよ」

 喉の奥からじわりと滲んだような、色気のある声に背筋が凍る。
 ハグの日なんて、言わなきゃこんなことにはならなかったのに。ドアの閉まる音の後に続いたため息は、後悔とは裏腹にねっとりとした熱を帯びていた。

2023/08/11