常世も君と恋がしたい#2

 ――果たして、どれほど眠っていたのだろう。やんわりと浮上した意識は夢に後ろ髪を引かれることもなく光を求めた。
 身体が重たい。まだ夢現の中にいながら、{{ kanjiName }}の身体は疲労を覚えていた。
 眠い、眠い、まだ眠っていたい。でも、ここは、そう、図書室だ。紫式部さんの、図書室。こんなところで眠っていたら、いくら温和な彼女といえど大目玉を食らうに違いない。
 頭の後ろの方で思いながら、{{ kanjiName }}は手を伸ばした。ほとんど、無意識だった。何故なら、ここは図書室ではなく彼女の部屋で、{{ kanjiName }}は冷たい床ではなく少し硬いベッドに横たわっている。それを彼女はまだ、理解できていない。
 とにかく、起きなくちゃと。
 身体が求めるままに、ゆっくりと目を開く。徹夜明けの身体には堪える。でも、起きなくちゃ。ノウム・カルデアは慢性的な人不足だ。こんな私でも、抜けたらわりと大きな穴だと、{{ kanjiName }}は自覚していた。
 どうして横になっているのだとか、いつの間に図書室からベッドへ移動したのだろうとか、気にすべきはもっとたくさん、あるというのに。

「ん……、」

 喉の奥から声が漏れる。{{ kanjiName }}は何を掴むわけでもないのに腕を伸ばし、手のひらを開いた。
 半開きの目が無機質な光を取り入れる。白の中に入り乱れる朱色を認める、だがそれよりも早く、パシリと軽やかな音が鳴って。
 手を、何者かに掴まれた。
 細い指だ。薄い手だ。体温は、ない。半ば強引に現実へと引き戻されて、{{ kanjiName }}は反射的に目を見開いた。そこには――

「ようやくお目覚めか?うの――いや、{{ kanjiName }}君」
「~~~~~~?!?!?!」
「寝起き一番に僕の顔を見た気分はどうだい?ああ、わかってる。声にならないんだろう?無理もない。今の君には刺激が強すぎる」

 声にならない声とはこういうことかと。{{ kanjiName }}は身をもって体験しながら、目の前にある三白眼の男を見上げた。そこでようやく、自室のベッドに横たわっているのだと理解した。
 同時に、疑問が沸々と湧いてくる。――私を見下ろしているこの人は、誰?と。
 よく舌の回る人だ。ついでに、言葉の選び方も随分と軽やかで慣れている。その上見た目も大変派手だ。
 美しい朱色の髪だけでも目を引くのにピンと跳ねた白黒の細い毛が男をより軽薄に見せるから、にっこりと弧を描いた唇に胡散臭さを感じてしまう。
 手を振り解こうとしたが、男の力に敵うはずがない。かえって焚き付けてしまったようで、男の筋張った指が{{ kanjiName }}の指に絡み付いてきた。恋人繋ぎというやつだ。
 それは手癖ほどに手慣れた仕草で、{{ kanjiName }}は腹の中で嫌悪さえ覚えながら眉根を顰めるに留めた。

「あの、私……いや、あなたはどなたですか?立香さんの、新しいサーヴァント?」
「二度も名乗らないぞ。よくよく頭を使って思い出したまえ」

 言われてみれば、名前を聞いた気がしないでもない。
 {{ kanjiName }}は確かに、フラついたところを何者かに助けられた。その後記憶が飛んでいるのは、なぜだかわからないが都合よく考えるなら過労のためだろう。
 他人に支えてもらったのは、随分と久しいことだったから気が抜けたのかもしれない。そこまで考えたが、しかし男の名前は露ほども思い出せなかった。
 何となくの気まずさから、{{ kanjiName }}の視線は控えめに落ち、すっかり力が抜けている。その様子をまじまじと見つめながら眼前の男は、ふぅ、とため息をこぼした。

「確かに君は、ぼうっとした所があったが……今世でもとはな」
「そんな、ぼーっとしてたわけでは……」
「ほら、そういうところだ」

 {{ kanjiName }}が反射的に顔を上げると、そこには薄紅の細い髪があった。続けて、鼻先に〝知っている匂い〟が触れる。
 体温のない鼻先がくっ付く。あわや重なりそうになった唇が、ふっと息を吐く。
 言葉の意味に気が付いて、{{ kanjiName }}はつい仰け反り距離を取ろうとしたが追い付かない。絡んだ手が、許さなかった。

「はははははは!言わんこっちゃない!僕が紳士でよかったな、君」

 男は声高に笑って{{ kanjiName }}から離れると、片手を腰に添えた。頑なに{{ kanjiName }}を掴んでいた手も遠くなり、{{ kanjiName }}は男に見下ろされている。

「まっ、これに懲りたら隙を見せる相手は選ぶことだ。誰も彼も僕みたいに甘くはないぞ」
「ちょっと待ってください!結局あなたは――」

 つい、引き留めてしまった。そのまま行かせれば良いものを、スプーンひと匙ほどの好奇心が声に出てしまった。
 勢いのまま起き上がった身体に向けられた視線は、瞬き一つの間だけ大きく見開かれた。しかし男の声が響く頃には、先程の切れ長の瞳に戻ってしまう。
 ちょうど男は部屋を出て行こうとしていた。しかし{{ kanjiName }}の呼び掛けに足を止め振り返る。開閉のセンサーまで僅か数センチというところだった。
 男は右端の口角を上げて意地の悪さを口元に浮かべていた。対し、目尻は緩く落ちてひどく穏やかで。
 そんな彼から飛び出た言葉は、甘くも苦い。{{ kanjiName }}の知らない、艶っぽいものだった。

「今世の君は、頭の出来がいいと聞いた。そんな君だ。ヒントなんて要らないだろう?続きは自分で考えることだ。思い出したら、嫌でも僕に会いたくなるさ」

 なんて横暴なんだろう。
 なんて一方的なんだろう。
 なんて利己的で、傲慢で、身勝手なんだろう。
 なのに、どうしてか。男の言うことがまるで法螺には思えず、{{ kanjiName }}は頭を抱えてしまった。

(サーヴァントであることは確実だろうけど、私に興味を持つような人なんて……)

 彼女の家は魔術師の家系ではあるものの今代においては魔力の量は普通の人より少し多い程度。その上マスター適性はゼロ。それでも{{ kanjiName }}がカルデアにいたのは、人手不足は勿論だが藤丸の母と縁戚であったことが大きい。
 兎角そのような生まれ育ちだしサーヴァントにとって魅力的な要素はない。目を付けられる謂れはないと彼女は思っていた。
 解決しない問題に頭を捻っていたら、コンコンとドアを叩く音が{{ kanjiName }}を呼んだ。そういえば倒れていたんだったと我に返り入口へ視線を遣る。

「こんばんは、{{ kanjiName }}様。ご気分はいかがでしょう?もう、起き上がれますか?」

 ゆったりとした声と共に現れたのは、サーヴァント・紫式部だった。
 そういえば図書館で倒れたのだったと記憶を思い起こし、{{ kanjiName }}は勢いのままベッドの上で正座をした。
 図書館といえば、司書である紫式部のテリトリーだ。そんなところで倒れてしまって、本を粗末にしなかっただろうかと心臓がはち切れそうになっている。
 そんな{{ kanjiName }}の想いを察したのか。紫式部はゆるりと目尻を下げ

「良かった。顔色もお戻りになりましたね」

 柔らかい声で{{ kanjiName }}を労った。
 そのままゆったりとした足取りで{{ kanjiName }}のそばへ寄ると、紫式部は忘れ物ですと一冊の本を手渡した。かと思ったら仔細を告げるでもなく踵を返してしまう。
 {{ kanjiName }}には失せ物をした記憶も、忘れ物があった覚えもない。紫式部が何を言っているのかわからずに、ついつい本だけは受け取ってしまった。
 まじまじと見詰めた本の背には、濃い紫の付箋がひらひらと纏わりついている。それは最近来たカルデアのサーヴァントの本だと、一目でわかった。さて、その名は――

「高杉、晋作?」

 口にした途端、糸を巻くように声が脳裏を駆け巡る。
 高杉晋作と名乗ったあの顔と声が、彼女を〝うの〟と呼んだ先ほどの男の影と重なった。

 ◇

「御婦人。野暮なことを頼んですまなかった」

 ふう、と。一仕事終えた紫式部は、廊下に出てすぐ胸を撫で下ろしていた。そんな彼女を待ち構えていた声が、これだ。
 高杉晋作である。
 高杉は飄々とした顔をゆるりと緩ませていた。対し、紫式部はいくらか怪訝な目をしている。

「御自分でお名乗りになればよろしいのに」
「いやさ、こういうのは第三者……それも信頼関係にある他人の方が望ましい。しかし、よく乗ってくれたな。{{ kanjiName }}君は君にとって友人のようなものなんだろ?」

 南天のような高杉の赤い目が、すっと細められる。品定めされているようで心持ちが悪いが紫式部は賢い女だ。嫌悪を表に出すでもなく、ただ、視線落とした。
 その哀れみのような懐古の情は彼女のうちに秘めた熱源でもある。高杉の目はかつての主、彰子殿がお上を見詰めるその横顔を彷彿とさせるのだ。

「気まぐれ、です。あなたを見ているとどうにも……いえ、何でもありません。そろそろ図書館に戻ります」
「ああ。この礼は、そのうち」
「ええ。マサ様との思い出話、楽しみにしております」

 それだけ言って、紫式部は踵を返し図書館へと戻っていった。一人残された高杉は、仏頂面を引っ提げて食堂へと向かう。

「マサか。マサなぁ」

 ――後ろ頭をかく。マサとは、かつて高杉晋作の妻だった武家の女だ。だが、共に過ごした時間は一年半と短い。
 嫌いだったわけではない。むしろ、自分には過ぎた妻だと当時の高杉は捉えていた。
 二人で過ごした時間でいえば、妾であったおうのの方がずっと長い。だが、だからと言って、マサよりおうのを愛していたとか、そんな単純な話ではなかった。
 激動の幕末を生きながら封建社会の中で毛利系に近しい武家の家系で育った高杉にとって、マサは戦友、おうのは――現代で言うなら、恋人、なのだろう。
 マサを護ってやろうと思ったことはない。一人で立てる女だ。
 しかしおうのは自分が囲っていなければ道端の石ころにも転んでしまいそうだった。庇護欲と、言い換えるべきか。

(約束を反故にするのはまあ上手い方だが、あの御婦人の後ろには何かこう、まずそうなものが見える気がする)

 それがまさか安倍晴明の痕跡だとは、さすがの高杉も夢にも思わない。
 そんなことより、いつ{{ kanjiName }}が会いにくるだろうかと指折り数える方がよほど楽しそうだ。
 ――高杉にしては珍しく、他人に執着していた。吉田松陰に対する尊びのようなものはないが、兎角手放すのが惜しい。だが、それを表に出しては釣れる魚でも逃げ出してしまうだろう。
 だから、高杉は待った。{{ kanjiName }}から声を掛けてくるのを、ただ、待った。
 しかし、数日待てど一向に{{ kanjiName }}が現れる気配はない。シミュレーションルームや食堂を行き来するものの姿さえ見当たらなかった。

2023/07/22