僕のバレンシア

 こつん。肩に小さな顔の輪郭が、当たる。薄暗い部屋に灯るいくらかの光は、カウンター席のグラスだけに瞬きを与えていた。
 酒で火照った顔を誤魔化すように、ふいっと視線を落として手元を見る。そこには、高杉社長の細く骨張った、男の手があった。中身の減らないグラスをカウンターへ置き、まあるい氷を溶かさんとばかりに手を添えている。

「あのう、高杉社長ー……飲み会、せっかく抜けてきたのに、お酒進んでないですよ」

 肩の重荷、否、恋人に声を掛ける。一大プロジェクトがようやくクロージングして市場に出た。今夜はその打ち上げだったのだけど……高杉社長に誘われるがまま抜け出して、社長御用達のバーにやってきてしまった。
 高杉社長はお酒が好きだ。飲み会のどんちゃん騒ぎもわりと好きだ。自分が主役じゃなくても、酒に狂って遊んでいる人を茶化すのが好きだ。
 そんな彼が会社の飲み会の最中「こっそり抜けてしまおうか」と手を引くものだから、つい驚いて誘いに乗ってしまったけど……バーに入ってすぐ、高杉社長はウヰスキーとバレンシアを注文してきり、この調子だ。お酒にはあまり詳しくないのだけど、いつだったか好きだと話していたのがウヰスキーだったことだけはよく覚えていた。
 高杉社長は視線だけこちらに寄越すと

「別に?君こそ、温くなってしまうよ」

 むすっとした声の後に、高杉社長はようやく一口グラスに口を付けた。私も慌ててグラスに手を伸ばし、甘い果実で喉を潤した。でも、それっきり。高杉社長はツンとした顔のまま私に身を寄せている。
 いつもなら、どうしたんですかとひたすら聞くところなのだけど……今日の私には、そうできない事情があった。それもこれも、全部高杉社長のせいだ。
 今日の高杉社長はいつもと違う恰好をしていた。あのド派手な白の着物はどこに置いてきたのか。いわゆる、洋装だったのだ。
 お洒落なワインレッドのジャケットに、濃いグレージュのパンツ。邪魔だったのか、バーに入ってすぐネクタイは解いてしまった。シンプルながら洒落た色味は高杉社長によく似合っていて、それはもう、似合っていて……こんなの、直視できっこない!
 ただでさえ私は高杉社長の顔に弱いのに。あまつさえこんな風に甘えられたら、骨抜きになる他ないじゃないか。心臓が破裂しそうなほど、煩い。
 高杉社長はそんな私の気持ちなど露知らず。ちびちびウヰスキーを呑むばかりだ。いつもは壊れたラジオほどによく喋るのに、今夜は随分静かだ。
 一体何があったのかと問い質したかったけど、高杉社長の顔を見ることが出来なくて私もつい押し黙ってしまう。
 そんな空気にひびを入れたのは、驚いたことに高杉社長の方だった。だんまりを続けていた口が、ふと私の名前を呼ぶ。それに呼応して肩を揺らしたら、軽快な笑い声が響いた。

「なあ、{{ kanjiName }}君。君、中々酔わないな」
「緊張でいまいち……そういう高杉社長は、顔赤いですね」
「ああ。気分が悪くて、ついね。一次会では飲みすぎた」

 ちらりと落とした視線の先には、ほんのりと赤らんだ高杉社長の顔があった。相変わらず不貞腐れた顔をしていたけれど、声色はいくらか平素のものに戻っている。
 それにしても、気分が悪いってどういうこと?一次会のことを言っていたようだけど。
 不思議に思って「どういうことですか?」問えば、高杉社長は勢いよくグラスを傾けてウヰスキーを片付けてしまった。

「技術企画室の飲み会には、金輪際参加せん。勿論、君もだぞ」
「えぇ?何ですか、それ」
「君も、あんな風にへらへらと笑っているんじゃないぞ。全く、僕がいなかったらどうなっていたことか」

 そういえば、いやに声を掛けてくる男性社員がいた。高杉社長のことをずっと目で追っていたから、会話はまるで弾まず何を話したかなんて覚えていない。声はおろか、顔を思い出すことさえできなかった。
 でもそれって、それって、ねえ、高杉社長。それっていわゆる、

「……ヤキモチ、ですか?」
「違う。君の警戒心のなさに腹が立っただけだ!相手が僕みたいなのだったら、どうする気だ?」
「男性なんて、高杉社長か、それ以外かとしか思えないので、何とも」
「ああ……君もいくつか頭のネジが飛んでいたんだったな。すっかり失念していた」

 高杉社長は呆れたように言って、氷だけが残ったグラスをカラりと揺らした。聞き捨てならない言葉が確かにあったけれど「一口」と言って唇を塞がされてしまったから、口答えの一つもできやしない。

「うん。やっぱり甘いな、バレンシアは。君みたいだ」

 そう零してすぐ、高杉社長は私からグラスを奪い取り軽く飲み干してしまった。
 それからあれよこれよと言う間に会計を済まされて、さて帰ろうと手を引かれた先は――言わずもがな、高杉社長の自宅だった。
 飲み直す時間も惜しい。そう言わんばかりに、頬がじわり、じわりと赤らんでいく。

2023/07/22