ならばせめて爪痕を

 この世を変える。世界をひっくり返す。呑気な幕府に吠え面かかせ、世子を表に迎えよう。そんなことは、どうにでもなる。どうにでもしてみせようと知略を張り巡らせるというのに、僕という男は〝彼女には〟弱かった。
 今の僕を見たら、あの高杉晋作がと、桂さんあたりは目を丸くするに違いない。いや、はたまた僕の一途さをよく知っているからしたり顔でも浮かべるか?久坂のやつはきっと後者だろう。彼奴は賢く、僕のことをよく知っていた。
 置いて行った男のことなど考えながら、もう半分では女を想う。さて、{{ kanjiName }}が好きだと話していた果実は何だったか。ショーケースの前で、顎に手をやり腰を折る。
 いや、滑稽な様に違いない。なんと言っても、この高杉晋作ともあろう男が!ケーキ屋のショーケースの前で思案顔を浮かべているんだからな。
 ガラスには整った僕の顔が映っており、その地肌には色鮮やかなタルトがずらりと重なっていた。
 それにしても僕ときたら、あの女の好きなものさえ知らんときた。ただ、朝餉を食べながら〝美味しそう〟だと、テレビに向かって言った。それだけしか、僕は彼女の好みを知り得ない。
 こうなりゃ自棄だ。顔を上げ「お嬢さん」店員へ声を掛ける。そうして、人差し指を右から左についっと撫でるようにして――赤、緑、薄桃のタルトを一つずつ注文した。
 残り僅かな現金をこんなものに使うなど、馬鹿げている。ああ、馬鹿でいいのさ。何せ、これが僕なりの誠意ってやつだからさ。

 ――つまるところ、ここはとある微小特異点。時は平成、舞台は日本・東京都。{{ kanjiName }}と出逢ったのは、そのど真ん中だった。
 本来ならマスター君と特異点の元凶を探し歩いている頃合いだが、生憎運が悪かった。レイシフト早々、この狭苦しい大都会でマスター君と離れてしまったのでね。
 さて、どうしたものかと。おろしたての霊衣にはまだ慣れないが、人並みに化けてはいるらしい。誰に捕まることもなく人波に呑まれながらも行き着いた先は、ついぞ知らぬ他人の軒先だった。
 ぽつりぽつりと、近付いてきた雨足から隠れるように人様の家の玄関に身を潜めていた。そんな僕の目の前で、ぱしゃぱしゃと水を弾く音がして。

「――どちらさま?」

 それは怯えもなく、畏れもなく、憐れみもなく、ただ、小首を傾げるだけの声。薄切りの中にあった影はやがて人の形をとり、女の姿を映し出した。
 それが、彼女――{{ kanjiName }}との出会いだった。
 ここの家主だというこの女は、驚くほどのお人よしだった。
 濡れていませんかなどと言いながら僕を家に上げ、それほど上手くもない粥でもてなそうとしたんだからな。多少は疑心を抱かないもんかと眉を顰めたが、彼女は首を傾げるばかりで僕を追い出そうとしない。
 それから。{{ kanjiName }}は話せば話すほど非凡で、変わり者だった。ベンチャー企業の社長らしく、僕とも中々趣味が合う。何より、女の一人暮らしだから好きなだけいてくれて構わないと言う。こんな、素性の知れぬ男に。
 僕からしてみれば、断る理由など一つもなかった。持ち合わせもなかったもんだから、こいつはいいスポンサーを見つけたとばかりに居着くことにした、というわけだ。
 マスター君とはそのうち会えるだろうとたかを括って、今日でちょうど二週間。果たしてその日はやってきた。
 邪魔立てされていたという通信機能が復活し、僕の名を呼ぶマスターの声が寝耳に響いた。

《やっと繋がった!高杉さん、今どこ?!》
「……ああ、マスター君か。久しぶり、と言うほどでもないか。それにしても、君の声は寝起きに響くな!少し遠慮してくれたまえ。隣人が起きてしまう」
《隣人、ですか?どなたか、支援者が……?》

 音声がマシュ君に切り替わった。映像には未だ不具合があるようで、薄い朝焼けの中に砂嵐と二人の声だけがある。

「外れてはいない、とだけ言っておこうか。……積もる話は後にしよう。ひとまずは、落ち合う場所を決めないか?」
《そうだね。それじゃあ――》

 音もなく閉じた回線に、ふと胸を撫で下ろす。視線を落とすと、{{ kanjiName }}の頭があった。ちょうど胸のあたりに、{{ kanjiName }}の唇が当たってどうにも妙な心持がした。
 マスター君の声はよく通る。それが{{ kanjiName }}の耳に入らぬよう、僕は正面から抱きしめてその上軽く耳を塞いでいた。咄嗟のことだったが――ああ、隣で眠っているだけの女だったはずなのに。今になって、惜しくなる。二週間も寝床を共にしておきながら今日まで指先さえ触れやしなかった。その事実が。
 {{ kanjiName }}を神格化しているでもなく、ただ、触れられなかった。そこらの遊女のように一晩抱く相手にするには勿体無いとさえ思った。ああ、こいつは厄介だ。かつて色街で名を馳せた男の台詞じゃぁないな。
 全く、なんの面白みもない。これほどつまらんことがあるか。先生以外の人間に、僕にとって金蔓でしかない女に、情を抱きあまつさえ絆されるなど。
 腕の中でもぞりと動く小さな身体。それは僕の手を拒むように頭を横に振った、かと思えばその細い腕をこちらへ伸ばし弱々しい力で抱き着いてきた。

「そういえば君は、この家は一人暮らしには広すぎると言っていたな」
「――すー……」

 答えない。眠っているのだから、当然だ。{{ kanjiName }}は完全な夜型で、朝に弱い。カーテンの隙間から薄日が覗いていようとも、まるで起きる気配がなかった。
 それを良いことに、独り言ちる。{{ kanjiName }}の柔らかな髪を梳き、僕を抱きしめるその手を許してやる。それでも、ああこいつは誰にでもこんなことをするんだろう。脳裏に顔のない男と彼女の身体が重なる影を浮かべてみたら、何だ。ひどく気分が、悪いな。
 いつかの影法師である僕が抱くには、あまりに夢のない話だ。明日にはここを去る僕と、その後特異点と共に消えゆくであろうと君。座に帰せば記憶は記録に変わり、たかが君と過ごした記憶などきっと残りはしない。そのためだろうか。――{{ kanjiName }}の好意に、僕の恋情を乗せてやろうと考えてしまったのは。

「一宿一飯の恩義くらい、この身体で返してやってもいい、が……なあ、君。無防備にも程度ってもんがある」
「……うん。だって、あなた、明日で消えてしまうんでしょう?可愛らしい爪痕を残すくらい、許して欲しいわ」
「えっ?君、起きてたのか?」
「盗み聞きをするつもりはなかったのよ。でも、聞こえてしまったから」

 僕としたことが、迂闊だった。と言っても、今回はマスター君に責があるだろう。不幸中の幸いであったことは、あの不可解なやり取りを、彼女がそう問い詰めてこなかったことだ。
 {{ kanjiName }}は僕の身体から手を離し、のそりと起き上がった。怒っているのかと表情をうかがったが、それは杞憂だった。何でかってそりゃあ…凛とした目を歪め、僕の身体に圧し掛かってきた否、馬乗りになってきたからだ。強気に上がった口角とは裏腹に、行かないでと言わんばかりの子どものような目でこちらを見ている。

「この二週間の衣食住。ツケにはできないみたいですから、特別料金でいかが?」
「はっ。僕相手に交渉とはね」
「交渉なんて、とんでもない。ここで今すぐ、払って欲しいわ」
「それは、言葉のままと受け取ってもいいんだな?」
「うん。…どこぞの誰とも知れない、あなたに惚れてしまった時点で私の負けだもの。それに、あなただって――私のこと嫌いではないでしょ?」

 {{ kanjiName }}の人差し指が、僕の鎖骨をトンと小突く。指先から、震えが伝う。それが高揚のためなのか緊張によるものなのかは定かではない。
 ただ一つ言えるのは、僕は鴉を殺せない。{{ kanjiName }}に至っては鴉に触れようともしない。だが僕たちは、あの煩い鳴き声の中であっても肌を重ねることはできる。
 震える手を引き、こちらへと押し倒す。べたりと僕の上に落ちてきた{{ kanjiName }}の身体を抱きとめて、柔らかな唇に接吻を落とす。ねっとりとした糸が絡むのもお構いなしに、舌を絡めた。息が上がるのもお構いなしに、小さな頭を支えて好きなようにさせてやる。だが{{ kanjiName }}は案外受け身で、僕が伸ばした舌先を懸命に受け止め時折声を漏らすだけだった。
 不慣れなのかと。あまりに初心な様子に胸が躍る。僕の爪痕が、最初で最後。{{ kanjiName }}の身体に残るのは、僕の感触だけ。

「{{ kanjiName }}、」

 塗れた独占欲をそのまま声にして、彼女の名前を呼ぶ。僕の上に乗っていたその身体を、ごろりと横に倒して馬乗りになる。ああ、ああ、己の長い髪が、朝日を遮り{{ kanjiName }}と僕の間に夜を描いた。



 いくら{{ kanjiName }}が望んだからと言って、抱いて終わりじゃあまりに後味が悪い。何かどうにか、贈り物の一つでもしてやれないかと思案した。
 その結果が、これだ。ケーキだなんだとひどく単純で女慣れしていない男のようで情けなかったが{{ kanjiName }}から貰った小遣いじゃ選べるものなんて決まっている。
 どんな顔をするだろうかと眉根を顰めていたんだが、{{ kanjiName }}は思った以上に燥いで喜んで、この世の終わりに見せるような笑みで僕の名前を呼んだ。
 ――ああ、何とかならんものか。{{ kanjiName }}の顔を見ていたら、この微小特異点とやらをこのまま、残してやりたくなる。それが仮初の身には余る願いだったとしても。

2023/07/22