終われよ初恋

 彼女は俺のことを「杢ちゃん」と呼ぶ。
 こんなおっさんになっても、変わらず「杢ちゃん」と呼ぶ。幼少の頃から続いたそれは大人になっても変わらず、人妻になってなお彼女の店に食いに行くと「杢ちゃん」と笑顔で俺を出迎える。
 旦那はよくできた男で、それを止めるでもなく一緒になって「杢さん」なんて呼び始めたもんだからたまったもんじゃなかった。
 かつて俺の手を取って、夜道を怖い怖いと言いながら並んで歩いた女は、今や大丈夫よと子どもの手を引いて歩いている。

 ああ、難儀だ。重たい感情だなぁ。

 口にすることもできず、出された日本酒をくいっと一口に飲み干した。カウンターの向こうで「杢ちゃん、もう少しゆっくり呑んだら?」昔と同じように同じ顔で笑う女が目に入る。
 菊田と呼んでくれないかと言いかけて、口をつぐんだ。彼女にとって俺は「杢ちゃん」であり「菊田」でも「杢太郎」でもない。
 もう一杯と顔を上げた先には、旦那の姿があった。俺を見て、呑みすぎですよと眉根をよせている。
 困ったことに、俺はこの旦那もそう嫌いじゃない。友人にはなれねぇが、嫌いじゃぁないんだよ。
 いっそ憎いと思えたら楽だったろうに。口元を緩めて、おあいそを口にした。

2023/05/09