回り始めた時計の中で

 頼んでもいない酒が来た。女一人で入るような店ではないと知りながら、しかし脚が勝手に向いたのだと言い訳をしておでんを食べていた時のことだ。
 小汚いけど料理は美味い店だった。そんな場所で、あちらのお客さんからと酒が回ってきたのだから目が丸くもなるというものだ。

「一人か?珍しいな」
「杢太郎」

 顔を上げた先には、甘い顔があった。杢太郎は垂れ目を弓形にしたまま、何の遠慮もなく隣に腰を下ろし乾杯を求めてきた。
 彼とは腐れ縁のようなもので、東京に出てきてからも度々顔を合わせている。
 だからって、よりによって今夜はち合わなくてもよかったのに。縁談の話が塵と化した、今日みたいな日に。
 日本酒を口にする杢太郎の顔を覗き込んで

「夕餉?」

 聞くと、杢太郎は少しの間の後に

「晩酌」

 ニヤリと笑って言った。その挑発的な顔には確かに見えすいた嘘が混ざっていたが問い詰めるほどの元気はない。
 いただいた酒をありがたく頂戴して、おでんの大根を頬張った。
 口の中で出汁が蕩ける。ほんのりとした甘みに幸福を覚える中で、しかしどうして酒を寄越したのかとふと疑問がよぎる。
 再び杢太郎に目を向けると――ねっとりとした艶っぽい瞳に、捕まった。てっきり彼も料理に舌鼓をうっているものと思っていたのに。
 でもここで目を丸くするのはどうにも癪だ。
 大根をごくりと飲み込んで「杢太郎」舌に馴染んだ名前を紡ぐ。

「この酒、ありがとう。でも、誰にでもこんなことしているの?意外だわ」
「誰にでもはしねえなぁ。あんたの顔を見たら、どうにも」
「なにそれ?」

 僅かに上がった口角と比例するように、杢太郎の目尻が下がる。がやがやと賑やかしい店内で、二人の間だけ時が止まったような感覚があった。
 時に抗うように、ぱちぱちと瞬きを繰り返す。そんな私を覗き込んで、杢太郎はにやりと強気の顔で笑った。

「好いた女だからな。特別だ。泣き顔に欲情する趣味はないもんでね」

 甘すぎる、言葉だった。
 白黒だった世界が急に色鮮やかに変わってゆく。回り始めた時計の中で、杢太郎は昔馴染から男に変わってしまった。

2023/07/22