あなたとあん蜜

 週に一度、昼時の店が混み合う時間帯。私は決まって、正門にてある男がやってくるのを待っていた。
 影が見えるや、たちまち笑顔を浮かべて声を掛ける。偶然を作り上げるが如く、ひょこっと顔を出して見上げる。空ほど遠くはない場所に、確かに彼の姿があった。

「菊田軍曹!こんにちは」
「またあんたか。看護婦ってのは、そんなに暇なのかい?」
「偶然ですよ。今日は、どちらへ?」

 菊田軍曹は口元を緩め鼻で笑うと「お嬢さんが行くような店じゃない」言いながら、歩く速さを落とした。口では拒絶しながら、受け入れてくれる。菊田軍曹の懐が深いところが、何よりも誰よりも、愛しくて会えぬ日は恋しくて仕方なかった。
 元は患者の家族――お兄さんでしかなかったというのに、いつの間にやら影を追い昼食を共にするような仲になっていた。
 とはいえ、毎日とはいかない。彼は勤め先の食堂で食事済ませている。毎週水曜日だけ、外食へ出ているようだった。その日を狙って、私は昼休みと同時に猛ダッシュで職場を出る。
 つまり、今日は一週間ぶりの逢瀬だった。ついつい、薄紅の唇が下品に曲がる。ああ、だめでしょう。こんな間抜け面を晒しては〝菊田軍曹の女の趣味は大したもんだ〟なんて嫌味な噂が広がってしまうわ。
 きゅっと唇を結び直してから、彼の影に隠れるように斜め後ろを着いて歩いた。

 ほどなくして、菊田軍曹は〝ここだ〟とも〝着いた〟とも言わず、ただ振り向いて手を差し伸ばしてくれた。
 西洋かぶれの柄が店のドア一面に描かれている、洒落た店だった。壁は流行りの赤煉瓦で壁伝いに植えられた植木の花は、白に薄桃色に淡い黄色と、春を集めたような彩りだ。もうすぐ夏が来ようというのに、置いていくなと言わんばかりに朝露の残りを植木鉢へと落としていた。
 ――それにしても。ちらりと、菊田軍曹の背中に視線を戻して伸びた背筋を前にすると、自然に眉尻が下がった。
 普段連れて行ってくれる小汚い居酒屋とはまるで違う、華族かぶれの庶民が好みそうなレストラン。まるで〝女として〟彼に認められたような心持だった。近付いてきた憧れの影に胸をときめかせながら、振り向いた菊田軍曹の手を、伸びてきたその手を取って、引かれるがまま店へ入った。扉の前には僅かに段差があった。
 薄橙と卵色を基調にした店内は、外観に負けず劣らず洒落ていた。紅色の美しい着物を纏った女給に出迎えられて、あれよこれよという間に一番奥の窓際席へ通された。木製のテーブルに、簡素な椅子が向かい合った上等な席だ。
 菊田軍曹は私を奥の方へ座らせてから自分もと席へ着いた。そのまま自然な流れで、メニゥ表をこちらへ向けて広げて「どうする?」私に問い掛ける。見慣れぬ横文字に首を傾げ、どうしたものかと顔を上げたら菊田軍曹の意地悪な口元と目が合った。

「菊田軍曹は、もう決められたんですか?」
「ああ。俺はいつものにするよ」
「いつもの……では、私もそれで」
「いいのか?甘味もあるぞ。遠慮しなくていい」

 そう言って、菊田軍曹はメニゥの右端あたりを指差した。ええと……チョコレイト、あいすくりん、コヽア……先日お見合いをした同僚の口から聞いたことはあったけど、何がなんだかよくわからない。仕方なしに、唯一知っていたものを選んだ。

「あん蜜、食べたいです」

 菊田軍曹は満足そうに眉尻を下げて、そうかとだけ言った。
 頃合いを見計らったかのように、女給が水を運んできた。そのまま彼女を呼び止めて、菊田軍曹は慣れた様子で注文をし、女給は手元の紙に注文を書き留めていた。菊田軍曹と同じものをと言ったのに、彼は〝カツレツ〟と〝ビーフシチウ〟を注文していた。カツレツは、女の私にはあまりに量が多かった。ずるい人だと、思った。
 初めて食べたビーフシチウには、ごろっとした牛肉が入っていて、ひどく驚いた。食べていいのかと、おそるおそるスプーンを手に取り掬い上げた。許しを請うように菊田軍曹を見上げると、彼は大きな口にカツレツを放り込んでいる最中だった。どきっとして、慌てて視線をビーフシチウの皿に落とし、意を決して牛肉を頬張った。
 ……甘い?お野菜の味?何とも表現しえぬ風味が、口の中で溶けてゆく。不思議な感覚に目をぱちぱちさせていたら、菊田軍曹が「美味いだろう」と私を呼ぶのと同じ声で同意を求めてきた。うん、と頷き二口目を掬う。
 どろりとした液体の中に、鮮やかな野菜と、スゥプと同じ色をした牛肉が転がっている。どこからこの深い味わいが出てくるのだろう。菊田軍曹に聞こうとしたけど、彼はカツレツに夢中になっているようだったから口を閉じた。彼と会話という会話ができたのは、食事を終えて、あん蜜と珈琲がやってきたその後のことだった。
「しかし、あんたもよく飽きずに通うもんだよ」
 薔薇の花が描かれた珈琲カップが、菊田軍曹の口元で揺れていた。私はあん蜜の白玉を頬張っている最中だったから、もぐもぐ口を動かしながら首を傾げて意思表示をする。菊田軍曹は子どもを見るような目をして「美味いだろう。ここのあん蜜」先程と似たようなことを言った。
 いつか私は嫁に行く。あなたのためと言われながら、お家のためにどこかへ嫁ぐ。せめてそれまでは、この恋を育みたかった。あなたとあん蜜を食べた、その事実だけできっと私は生きていける。だから、この日常だけは、週に一度の平凡だけは、誰にも壊されたくなかった。食事を頬張り緩んだ私の顔を見て〝美味いだろう〟と、薄く笑う菊田軍曹との時間が、何よりも愛おしかったのだ。
 菊田軍曹は私のことなど〝弟を見ていた看護師〟程度にしか捉えていないだろう。それでも嫌われてはいなかったはずだ。だというのに、まさか――あなたによって、時計の針が止められそうになるとは、思いもしなかった。

「そろそろ、終わりにしねえか」
「何をですか?」
「あいつの、弟のことを、{{ kanjiName }}さんが気負うことはない。俺を不憫に思わなくていい。構う必要は、ねえんだよ」

 緩やかな、拒絶だった。呑み込んだ白玉が喉を通り過ぎたその直後、胃の底にかき氷でも落とされたような感覚が走る。
 スプーンを握る手に思わず力が入って、瞳の奥が熱を帯びる。涙は女の武器だ。こんなところで使うには、まだ早い。急激に喉を潤そうと、グラスを引っ掴んで水を一気に飲み干した。菊田軍曹の顔を見ることもできず、ただ、彼から逃げるように、温い水で冷えた胃を温めようとした。

「おい、一気に飲むな」
「けほっ、大丈夫、大丈夫、なんです」

 慌てて水を呑みほしたものだから、息の方へ入ってしまったらしい。けほ、けほ、止まぬ咳を止めようと喉元を指で抑えるが、声を出そうとしても苦しくて詰まってしまう。店の中で、こんなに咽てしまうなんて、これじゃ菊田軍曹に恥をかかせてしまう。
 ぐんぐん上がっていく体温は、私の顔を火照らせた。羞恥で赤面した顔は、火事場のようだったに違いない。
 俯いたまま目を閉じた、その時。背中に、大きな手が添えられた。私とは違う、別の体温だ。
 ちらりと右手に視線を遣ると、向かいに座っていたはずの菊田軍曹の姿があった。わざわざ席を立って、私の隣に来てくれたのだ。ああ、どうしたって、優しい人だ。こういうところに惹かれたのだと思う反面、菊田軍曹の優しさが胸を抉る。菊田軍曹は中腰のまま、私の顔を覗き込み心配そうに「大丈夫じゃあ、ないだろう」呆れた声で言った。

「さっきの話は、また今度にしよう。あんたの方が重症だ」

 嗅覚を擽る煙草の匂いに、安堵を覚えていることなど彼は知らない。込み上げた熱の出所だって、知らない。知らないから、そんなことが言えるのだ。
 誤解されたまま逢瀬を重ねるような図太さを、私は持ち合わせていない。だから、今日、誤解を解かなければならなかった。
 ふるふると首を横に振る。菊田軍曹へ目を遣って、喉の奥に声を引っ掛からせながら、違うのだと、口にした。

「だいじょ、だいじょぶ、です。私、気負って、ないです」
「その話は、次にしよう」
「つぎじゃ、嫌なんです。私、菊田軍曹と、一緒にいたい、だけなんです」

 それだけ言うのが、精一杯だった。背を撫でていた菊田軍曹の手が、ピタりと止まる。次いで聞こえたのは、一際大きなため息だった。

「あんたな。大人を揶揄うのはよくない」
「からかってないですよ。本気、です。本気だから――」

 ぐっと、着物の裾を掴む。この頃には気管支の詰まりも消えていて、十分に声を出すことが出来た。けれどここは店内で、私が咽たがために私たちは注目を浴びている。その上、菊田軍曹が立ち上がり私を介抱したものだから、周りの冷ややかな視線が痛くて仕方がない。これ以上は駄目だと判断して、菊田軍曹へと視線を移した。至近距離に迫った顔に胸が波打つのを感じながら必死にこらえて、菊田軍曹の耳元に唇を寄せた。

「今夜ね、菊田軍曹のとこに行きたい。今日と明日、お休みなんです」

 絞り出した声を、精一杯の熱を、菊田軍曹がどう捉えたか知らない。ただ彼は、困ったように首を振って私から離れていった。
 向かいの席に腰を下ろすと「あん蜜、食べなくていいのか?」食べ掛けのスプーンを指差した。何事もなかったかのような顔に面食らいながらも、うんと小さく頷いてあん蜜に意識を戻す。
 なかったことにされた。きっとそうだ、今日で終わりだ。これじゃ誤解されたままと変わらないじゃないか。惨めな気持ちにあん蜜のねっとりとした甘みが拍車を掛ける。そうして、初めて気付くのだ。最後だから、ここに連れてきてくれたのだと。
 しょっぱい涙と餡子が混ざる。蜜のとろみにするりと塩気が混ざる。頬に零れないように何度も瞬きをしながら、さっさと食べ終えてしまえと大口を開けた。食べ終わるまでの間、菊田軍曹は私を見ているばかりで口を開くことも、視線を逸らすこともしなかった。ただ、手元の珈琲だけが、私があん蜜を胃に収めるのと同じ速度で少しずつ減っていった。

 会計を済ませ、店を出た。入ってきた時と同じように、菊田軍曹はドアを開け一歩外へ出てすぐにこちらへ振り向き私の手を取った。入ってきた時と違うのは、菊田軍曹が私の手を自ら取ったということだけ。遠慮がちに体重を掛けて、トンっと段差を下り菊田軍曹の側へ降り立った。午後の日差しが燦々と照り付けて、足元に濃い影が二つ並ぶ。
 平坦な道へ出たのだから、もう菊田軍曹にとって私の手は用無しのはずだった。手が離れ、身体が離れ、彼の斜め後ろに一つ影が落ちる。そのはず、だったのが。不思議なことに、菊田軍曹は私の手を掴んだまま、ぐいっと自分の方へ引いた。
 突然のことに対処できず、下駄が地面をカラリと蹴り上げて菊田軍曹の腕に身体を寄せてしまう。慌てて離れようとしたけれど、私の手を握る力は強くとても太刀打ちできなかった。

「……菊田、軍曹?」

 小声で、名前を呼ぶ。街路樹が、ざわりとそよぐ。期待が風呂敷包みを開けて、胸の奥をざわつかせた。

「生憎、今日は俺も休みなんだ。今夜と言わず、今から来るか?」

 甘い、誘いだった。降ってきた声に思わず顔を上げて、目を見開いた。そこには眉尻を僅かに下げて、唇を緩く弓形にした菊田軍曹の顔があった。

2023/07/22