引けど、知らぬ頃には戻れない

「藤丸さん。いま、お時間よろしいですか?」

 ほんのりと迷いを含んだ声に呼び止められて、立香は足を止めた。食堂からの帰り道でのことである。
 振り向いた先にいたのは、立香がよく世話になっているカルデア医療班のスタッフだった。立香よりもいくらか年上だが、同郷のよしみもあって姉のように思っている人物だ。
 その姉――{{ kanjiName }}は、いつになく落ち着かない様子だった。
 聡明な彼女は立香の前ではいつも凛としている。立香が不安に駆られないよう、クマを隠しながらもそうあろうと務めていた。
 そんな{{ kanjiName }}が、珍しく狼狽えている。目は泳いでいるし、眉根はよって八の字を描いていた。
 よほど、まずいことでもあったのだろうか。
 怒涛のバレンタイン、さらにはホワイトデーのお決まり特異点はなんとかこなした。近々で、彼女の顔色がここまで悪くなることなんて思いつかない。
 立香は緩く笑って、小首を傾げた。いつも{{ kanjiName }}がそうしてくれるように。

「どうしたの?」
「あの、ええと……ここでは、ちょっと……私の部屋に来ていただけませんか?急ぎの用事ではないので、後でも……」
「いいよ、行こ!」
「ええ。……あの、藤丸さん。何があっても、驚かないでくださいね」

 はぐらかすにしては、あんまりに下手。だが、{{ kanjiName }}の困り果てた顔を見たら立香は何を言う気にもなれなかった。
 大丈夫だよといつも通り返した。本当に〝大丈夫だ〟と思って返した。
 修羅場を嫌と言うほどくぐってきたのだから、並大抵のことじゃ驚かない。
 それこそ、ギルガメッシュが土下座をするくらいのことがなきゃ、びっくりなんてしない。そんな自信が立香にはあった。
 だが、その自信はいとも簡単に打ち砕かれることになる。

 {{ kanjiName }}の部屋に着き、どうぞと言われるまま部屋に踏み込む。すると、思ってもみない声が立香を出迎えた。

「やぁ、{{ kanjiName }}!遅かったじゃないか。この僕を待たせるなんて、君も中々偉く――ん?マスター君?」

 狭い部屋のほとんどを埋め尽くしているベッドの上で、三味線を弾く男の姿があった。
 三白眼を立香に向け、しかしすぐに視線を{{ kanjiName }}へと戻してしまった。
 {{ kanjiName }}は積極的にサーヴァントたちと交流するタイプではない。必要最低限、それこそ立香の身に何か起きた時だけだ。
 魔術師ではないためか。どちらかというと、畏怖の念を抱いているようにも見えた。
 そんな彼女の部屋に、どうして高杉がいるのか。気付いたらどこかにふらっと消えていて、戻ってきたと思ったら岡田や坂本と宴会をしている高杉が、なぜ?
 つい立香は{{ kanjiName }}を見たが彼女はふるふると首を横に振る。仕方なく高杉に視線をやって、問いかけた。

「……えーっと……高杉さん、何で{{ kanjiName }}の部屋に?」
「いやぁ、岡田君と呑んで歌ってとしていたんだが、彼女に呑みすぎだと言われてね。そんなに言うなら監視するといい、僕は逃げないよと言ったわけさ」
「逃げないっていうか、ここ、{{ kanjiName }}の部屋じゃ……」
「近くにいなけりゃ、監視できないだろう?」

 もっともらしいことを言っているが、ほとんど屁理屈だ。それに、同じようなことはエミヤにも言われていたのを立香は知っている。
 なのに{{ kanjiName }}にだけ執着する理由がわからない。高杉からしてみれば、そう面白みのある女性でもないだろうに。
 立香がつい腕を組むと、隣から{{ kanjiName }}が服の裾を引っ張った。そして、高杉から逃げるように視線を立香へと向けて「何なんですか、彼」小声で訴える。
 何なんですかと言われても、立香にもわからない。思案顔を浮かべたが、あいにく答えを持ち合わせていなかった。

「{{ kanjiName }}、なんかした?」
「特別なことは何も。だから困っているんですけど」
「まぁそうだよね。わたしが何とか言ってみるよ。 高杉社長ーダメですよ、女性の部屋に居座るなんて」

 立香は腐ってもマスターだ。高杉は主従関係を嫌がるが、認めていなければここにはいない。
 だからまぁつまり、多少なり立香の言葉には耳を傾けようとする。勿論、多少……だが。

「マスター君に迷惑はかけていないだろう?それとも、何だ?混ざりたいのかい?悪いけど、監視は彼女だけで間に合っているよ」
「そうじゃなくって……意味もなく男女同じ部屋に昼夜問わずいるのは問題があるかと」
「ふむ。関係に名前を付けろと言いたいんだな?」

 しまった、と。高杉の口角が上がるのを見て、立香は眉根をひそめた。
 すっと細くなった目、わずかに高揚した頬。それらは企みが成功した時に見せる顔だ。
 何を考えているのかわからないが、高杉のことだ。ろくでもないことに決まっている。
 立香は反射的に{{ kanjiName }}の前に腕を出して、守ろうとした。しかし、高杉の動きはそれよりも速く――立香が隣にいるはずの{{ kanjiName }}を見上げた時には、既に時遅し。高杉によって{{ kanjiName }}は抱き抱えられていた。

「ひゃっ?!ちょっと、高杉さん、離して!」
「えぇ……高杉社長、三味線より重たいものは持たないんじゃなかったんですか?」
「彼女の歌は中々面白くてね。面白いものを手放すくらいなら、無理もするさ」

 にやりと笑った高杉の顔に、立香は思わず項垂れた。
 歌?それだけで?そもそも面白い歌って、どういうこと?
 立香は{{ kanjiName }}の歌声を聞いたことがない。だから、高杉の腕の中で真っ赤になって顔を隠している理由もわからない。羞恥のためか、それも歌を指摘されたためなのだろうか。
 ただ、抵抗することなく収まっているあたり、後者なのだろう。

「理由はわかりましたけど……下ろしてあげたら、どうですか?」
「それは、いくらか惜しいな。こんな初心な顔が見られるなら、もっと早くこうしておくんだった」

 意地の悪い顔を浮かべて、高杉は{{ kanjiName }}の手の甲に唇を押し当てた。しまいには、立香がギョッとするのもお構いなしに「まるでタコだな!ハレの日でなくとも食べてしまいたい」なんて言っている。

「……藤丸さん、もう、いいです……」

 蚊の鳴くような声に呼ばれて、立香は我に戻った。
 高杉に抱かれたまま、{{ kanjiName }}は弱々しい声で諦めを口にしたのだ。
 両手で顔を覆ったままなので、表情は読めないがまいっていることだけは確かだ。

「でも、{{ kanjiName }}、」
「これ以上恥を晒したくないので……何かあったら、助けを呼びますから」
「ほらほら、そういうことだからマスター君は出ていっておくれ」

 負けじと食い下がろうとしたが、高杉に後ろから蹴られて半ば強制的に部屋を追い出されてしまった。
 廊下で膝をつき、イタタと背中を撫でる。顔を上げて、閉まったドアの向こう側を想像して――何とも言えぬ気持ちになったが、これ以上はどうすることもできそうにない。
 坂本あたりを頼れば助けになってくれそうだが、{{ kanjiName }}にも隠し事があるように見えた。下手に詮索すると彼女の立場を脅かすことになりそうだ。

「何かあったら、連絡くれるよね」

 ため息もそこそこに立ち上がり、来た道を戻る。散々な休憩時間だ。
 その頃、扉の向こう側では――

「高杉さん、あんまりです」

 {{ kanjiName }}は高杉の腕から解放され、ベッドの淵に腰掛けていた。彼女の背後には高杉の姿があり、脚の間に{{ kanjiName }}を座らせていた。
 華奢な{{ kanjiName }}の肩に顎を乗せ髪をいじってやりながら、さも愉しげに笑っている。

「君が勝手にマスター君を呼んだんじゃないか。僕にどうこう言える立場かい?」
「だって、その……あんまり居座られると、色々……」
「言っておくが、君に向けた都々逸はリップサービスじゃないぞ。あの下手くそな歌は面白くて仕方ないが、そんなものより――捩る君の身体の方がよほど興味をそそられる」

 馬鹿なことを、と。{{ kanjiName }}が反論するのも聞かず、高杉は{{ kanjiName }}の身体を後ろから抱きしめた。
 {{ kanjiName }}は嫌だとも止めてとも言わない。ただ、肩をびくりと上下させて控えめな悲鳴を上げている。
 その様子がおかしくて、何とか言わせてやろうと首筋に噛み付いた。鼻先で香る{{ kanjiName }}の匂いに昨夜のことを思い出しながら、柔肌を吸い上げる。いやらしい声が、まだ真昼であることを忘れさせた。

 二人の関係が始まったのは、つい昨日のことだった。
 日付が変わって程なくした頃、{{ kanjiName }}は食堂で夜食を食べていた。
 立香の身体ステータスの記録をまとめ終わり、大変気分が良かった。珍しく鼻歌を歌いながらカップラーメンにお湯を入れていた、そのとき。
 静かに、食堂のドアが開いた。床に薄っすらと伸びたのは、酔っ払った高杉の影だったのである。
 酔いもあって{{ kanjiName }}の歌に大笑いをした。高杉の声に反応し、普段冷静な{{ kanjiName }}が真っ赤になって取り乱すのが高杉にとってはひどくおかしかった。
 その上、酒の勢いとはおそろしいもので――気付いた時には手を出していた。
 一夜の仲に情を持つような男ではないが、媚びない{{ kanjiName }}のことも下手くそな歌も、彼の好みに一致してしまった。
 一度、求めたらその手を引かない。勿論引き際は弁えているが、高杉が自ずと手を離すことはしないだろう。それこそ、{{ kanjiName }}が心底嫌だと言わない限り。

2023/07/22